【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
正成尊氏義貞と有能な弟たちがいたのも太平記を彩ったよな。正季は違うとかいう野暮な反論はなしな。義詮直冬もいい味だしてる >>544
確かに勝ち戦もあるんだが、顕家との戦いのトラウマで以後粘りがなくなった
口先では最強硬派だけど、戦場では肝心所であっさり負けてあっさり逃げる人
桃井直常
「戦の時、どちらも退かなければ身をまっとうすることはできない。敵が先手を取ったらまず少し退いて、味方をまた立て直して攻めかかれば敵も退くものだ。」
今川範国
「桃井は、強そうな敵には何度も負け戦をするような人だ。人の天命は、そのように故実によって逃れることはできない。まず戦って、どうしようもなくなって力尽きた時に退くものである。」
・観応の擾乱で近江八相山の戦いで負けて直義優勢の空気が一変する。そのまま関東落ち。
・観応の擾乱で最初勝った宇都宮に次戦惨敗。そのまま関東は尊氏方優勢となって直義軍崩壊
・文和四年東寺合戦で主力が七条で奮戦したのに桃井が守る戒光寺をサクッと突破されて全軍敗退 >>554
本作の高兄弟に関しては、師直のほうが弟キャラだったな ??「敵は足利尊氏ただ一人!命を惜しむな!名こそ惜しめ!」 >>560
桃井はヤな奴だけど行家みたいな節操無しではなかったかと
あと「義経」で行家役だった大杉漣、端役で太平記にも出ているね
顔は全く写っていないけど声で丸わかりだった 桃井の名前の読みって、ドラマでは「なおつね」と言っているが、本当は「ただつね」だよな? 足利直義は「ただよし」なのに、登場人物のセリフで桃井直常は「なおつね」読みだったから放送当時、少し変な感じがしてた まじで大杉漣でてるな。昔の大河に若い頃の稲垣吾郎やくりぃむ上田がでてたな。
行家に似てるといったのは最初勝って後は連戦連敗ってのを言いたかったんだ
>>563
大杉漣→道誉の華麗な裏切り→坊門清忠→忍者右馬介で焼酎吹き出したわwwwwwwwwww 若殿はいかが…?
父上をお恨みいたすその一念はいかが…?
若殿の恨みが、この都を焼き払うておるのじゃ!!
これを鬼の執念と申しませぬか!? つべで久々に見たが、判官殿が足利殿の曖昧な態度が南北朝の動乱につながっているとはっきり言われているな。
サンキュー道誉 後醍醐帝が吉野にトンズラした後に尊氏が「なるようになる、何とかなるさ、Let it be〜♪」て言って、道誉直義師直が「なにいってだこいつ」って顔で呆れてるのが滑稽だったわ 鎌倉幕府が開かれてから130年、政治のひずみが到るところに噴出していた。正中ノ変はその典型的な例である。そして公武の亀裂はますます拡大し、乱世の微候が顕然となった。
「天皇御むほん」さえ囁かれるである。当時は両統迭立(てつりつ)の世、後醍醐天皇が英邁におわすほど、紛擾のもととなった。この間、足利高氏が権門の一翼として擡頭し、再度の叛乱に敗れた日野俊基とは明暗を大きく分ける。 >>579
(佐々木道誉)
ここに居並ぶ御歴々も御存知の如く、某は執権の君より内々の命を受け、長らく都の謀反に目を光らせてまいった。日野は、某の網に掛かった愚かな友でござる!! 原作では、狂言回し的な存在だった吉田兼好がキャスティングされなかったんだよな。
新平家は西行が蜷川幸雄だった。 >>581
(佐々木道誉)
円喜殿、勘違いをなされては困る。某は円喜殿と同心故、出たわけではない。
執権殿の命により出たまでの事。儂に指図が出来るのは…執権殿のみぞ…! 日野資朝の実弟賢俊が持明院統の光厳上皇の院宣を尊氏に届けるのはなんとも皮肉よな でも日野一族の大半は北朝方だし、そうじゃなければ室町期に日野家が足利将軍家の
外戚にはなれない。
それに仮に日野資朝・俊基が建武期まで生きていたとしても、史実における万里小路卿の
ように、やがて建武政権に失望して後醍醐から距離を置くようになったかも知れない。 資朝卿は後醍醐帝とウマが合うような変人だったらしいね 判官殿の家系って一度も他家から養子を取らずに版籍奉還まで大名として生き残ったんだな 凄いわ 伊達や島津だって普通に同一家系で続いているけど・・・? 大杉漣が急逝だとな…>>563は何かの暗示だったのだろうか。
ゴチとかどうすんだろうな >>593
どちらでもいいんだぞ。新しい政で新政でもあるし、天皇が自ら政治を摂った親政でもあるし 敵は、たれぞ
足利尊氏にござりまする!
このシーン音楽も良かったし記憶に残ってる
(この後判官…) >>596
陣内のニヤニヤ顔がホントにプラスに働いたドラマだよなw (佐々木道誉)
御辺の気が変わり、戦にお発ちの折には御一報を賜りたい。何処に居ようと、馳せ参じ…戻って参る。…御免! 尊氏が東国へ下る決断をしたら即判官殿が鎧を纏って駆けつける。ストーカーかよw >>600
逐一報告してくる草の者でも潜り込ませてる
って説明もないからやっぱりストーカーなのかねw尊氏大好き宣言してるしねw >>605>>606
(北条高時)
クックックックッ……!同じことだわ……! 三兄弟の鎌倉経営は功絶大だな。新田を追い出したのも完璧。 「観応の擾乱」を読んだけど直義は無気力で負けた
一方で子供がいてやる気になった尊氏が勝った
「横暴な師直」などというのは存在しなかった
とかいろいろ面白かった また室町やって 亀田さんは佐藤進一に反発してダダこねてる感があってw
でも直義無気力説はわかる
というか病気だと思ってる
きっと本当に病死だよ 「ウルトラマンが泣いている」っていう本を読むと、円谷一族の権力争いは観応の擾乱より酷かった 観応の擾乱は天下の大乱だぞ。昭和の生ぬるい一家系のお家騒動と比べること自体がナンセンス
あまり太平記を愚弄するなよ >>620
この時代の政治史をまともに研究するなら、佐藤さんに噛みつかないわけにはいかないだろう・・・。
まああまりに偉大すぎて乗り越えるのが大変なのは間違いないが でもその前に、無理やり人質を出させて
「異存あるまいの、足利殿」だからなぁw 北条殿が…人質を出せと言われれば人質を出し、戦に出よと言われれば戦に出る…今の我等に、それ以外の道がありましょうや…? このドラマにネプチューン原田泰造が死体役で出てたらしいけどわかる人いる? 死体はいっぱい出てたからDVDあるけど探す気になれないw 久しぶりに総集編を一気見したけど、やっぱり面白いね。
金剛山に登って千早城址も見てきた。
けど根津甚八さんロス(出演されてなかったけど、プラス渡瀬恒彦さんロス)は治らない。 >>631
そんな事言ったら他の出演者で鬼籍に入った俳優さん山程いるだろう
それに渡瀬さんはコッチじゃ無くて真田だろ、自分も好きな俳優さんだけど >>632
渡瀬恒彦は炎立つの御館の印象が強い。
ステレオタイプではない藤原秀衡を演じたから特に。 へえ、尊氏って鎮守府将軍にもなってたんだな。奥州に行ったことないのに何故なのか 源頼義と八幡太郎義家出てたな
佐藤慶の頼義のヒールっぷりと
佐藤浩市の義家が強調する振りをしながら裏で陸奥守就任阻んだ清衡に対しての罵詈雑言言った後に
あの男ならば〜って認める場面が良かった >>637
征夷大将軍に出来ない代わりの埋め合わせでしょう。
まあ歴代の征夷大将軍だって、東北地方に足を踏み入れたことのない人物が大半だけどな。
あと鎮守府将軍は、歴史的には陸奥守が兼帯することが比較的多い官職なので、尊氏を
鎮守府将軍、北畠顕家を陸奥守とすることで、建武政権下での2つの小幕府というべき
足利兄弟の鎌倉将軍府と北畠親子の陸奥将軍府を互いに牽制させるような意図が
あるようにも思える。 >>641
征夷大将軍の代わり(幕府開かれるからだろうけど)に鎮守府将軍てもう後醍醐むちゃくちゃやんか。公家に嫌われるのもわかるわ。先例もクソもない。頭ぶっ飛んでる。
南北朝期はぶっ飛んだ後醍醐と詰めが甘い尊氏のおかげで全国が滅茶苦茶になっちまったんだな ただ鎮守府将軍も「将軍」ではあるから、幕府を開けないかといえば、そこは微妙だな。
鎮守府将軍の在所を幕府を意味する「柳営」などと称している例はあるし、かつての
奥州藤原氏の柳之御所なんかも同じネーミング。(藤原秀衡は鎮守府将軍になっている)
ただ尊氏の鎮守府将軍は、鎌倉幕府成立以降は100年以上も任命例がなかったのを
突然復活させた感じなのがアレだが。 >>646
「幕府」「柳営」は、近衛大将に限らず、将軍系の官職全般の唐名として用いられるよ。
あと近衛大将の唐名というなら、一番一般的なのは、後世に公家の家格を表す言葉にもなる「羽林」だろう。 ちなみに「幕府」を武家政権という意味で使うようになるのは、実は江戸中期以降だな。
だから、太平記の時代に「鎌倉幕府」「室町幕府」なんて言い方は本当は存在しないが、
それを言い出すと凄く面倒なことになるので・・・w 頼朝さんは前右大将の肩書きで命令文ガンガン出してるんですが。幕府(鎌倉府)の体裁はできていると考えてよろしいでしょう。征夷大将軍は後付けの権威付け・箔付けって感じでしょうか。もちろん頼朝さん以降は征夷大将軍が必須ですがね 鎌倉幕府の組織そのものは、頼朝が右近衛大将どころか公卿になる以前に、実質的に
成立しているけどね。
頼朝の右大将家政所下文に関しては、元々は頼朝が公卿になる以前に袖判下文で出していた
ものを、頼朝の公卿昇進&右近衛大将任官に伴って、発給文書の様式を切り替えただけ。
これは文書様式自体は、朝廷の貴族たちや公卿に昇った平氏一族が出していた、例えば
大納言家政所下文のようなものと同様の公卿の政所(家政機関)の発給文書と基本同じ。 ちなみに、頼朝より後の歴代鎌倉将軍も、最初は発給文書が袖判下文で、その後に
将軍家政所下文のような形に切り替わるケースが多い。
しかし尊氏は、公卿身分であっても政所下文を一切用いず、ずっと袖判下文にこだわる。
そしてその後の室町将軍も、同様に政所下文は用いずに将軍の袖判下文(義満期の
途中からは袖判御教書)が、発給文書の基本となる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています