【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
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桃井の名前の読みって、ドラマでは「なおつね」と言っているが、本当は「ただつね」だよな? 足利直義は「ただよし」なのに、登場人物のセリフで桃井直常は「なおつね」読みだったから放送当時、少し変な感じがしてた まじで大杉漣でてるな。昔の大河に若い頃の稲垣吾郎やくりぃむ上田がでてたな。
行家に似てるといったのは最初勝って後は連戦連敗ってのを言いたかったんだ
>>563
大杉漣→道誉の華麗な裏切り→坊門清忠→忍者右馬介で焼酎吹き出したわwwwwwwwwww 若殿はいかが…?
父上をお恨みいたすその一念はいかが…?
若殿の恨みが、この都を焼き払うておるのじゃ!!
これを鬼の執念と申しませぬか!? つべで久々に見たが、判官殿が足利殿の曖昧な態度が南北朝の動乱につながっているとはっきり言われているな。
サンキュー道誉 後醍醐帝が吉野にトンズラした後に尊氏が「なるようになる、何とかなるさ、Let it be〜♪」て言って、道誉直義師直が「なにいってだこいつ」って顔で呆れてるのが滑稽だったわ 鎌倉幕府が開かれてから130年、政治のひずみが到るところに噴出していた。正中ノ変はその典型的な例である。そして公武の亀裂はますます拡大し、乱世の微候が顕然となった。
「天皇御むほん」さえ囁かれるである。当時は両統迭立(てつりつ)の世、後醍醐天皇が英邁におわすほど、紛擾のもととなった。この間、足利高氏が権門の一翼として擡頭し、再度の叛乱に敗れた日野俊基とは明暗を大きく分ける。 >>579
(佐々木道誉)
ここに居並ぶ御歴々も御存知の如く、某は執権の君より内々の命を受け、長らく都の謀反に目を光らせてまいった。日野は、某の網に掛かった愚かな友でござる!! 原作では、狂言回し的な存在だった吉田兼好がキャスティングされなかったんだよな。
新平家は西行が蜷川幸雄だった。 >>581
(佐々木道誉)
円喜殿、勘違いをなされては困る。某は円喜殿と同心故、出たわけではない。
執権殿の命により出たまでの事。儂に指図が出来るのは…執権殿のみぞ…! 日野資朝の実弟賢俊が持明院統の光厳上皇の院宣を尊氏に届けるのはなんとも皮肉よな でも日野一族の大半は北朝方だし、そうじゃなければ室町期に日野家が足利将軍家の
外戚にはなれない。
それに仮に日野資朝・俊基が建武期まで生きていたとしても、史実における万里小路卿の
ように、やがて建武政権に失望して後醍醐から距離を置くようになったかも知れない。 資朝卿は後醍醐帝とウマが合うような変人だったらしいね 判官殿の家系って一度も他家から養子を取らずに版籍奉還まで大名として生き残ったんだな 凄いわ 伊達や島津だって普通に同一家系で続いているけど・・・? 大杉漣が急逝だとな…>>563は何かの暗示だったのだろうか。
ゴチとかどうすんだろうな >>593
どちらでもいいんだぞ。新しい政で新政でもあるし、天皇が自ら政治を摂った親政でもあるし 敵は、たれぞ
足利尊氏にござりまする!
このシーン音楽も良かったし記憶に残ってる
(この後判官…) >>596
陣内のニヤニヤ顔がホントにプラスに働いたドラマだよなw (佐々木道誉)
御辺の気が変わり、戦にお発ちの折には御一報を賜りたい。何処に居ようと、馳せ参じ…戻って参る。…御免! 尊氏が東国へ下る決断をしたら即判官殿が鎧を纏って駆けつける。ストーカーかよw >>600
逐一報告してくる草の者でも潜り込ませてる
って説明もないからやっぱりストーカーなのかねw尊氏大好き宣言してるしねw >>605>>606
(北条高時)
クックックックッ……!同じことだわ……! 三兄弟の鎌倉経営は功絶大だな。新田を追い出したのも完璧。 「観応の擾乱」を読んだけど直義は無気力で負けた
一方で子供がいてやる気になった尊氏が勝った
「横暴な師直」などというのは存在しなかった
とかいろいろ面白かった また室町やって 亀田さんは佐藤進一に反発してダダこねてる感があってw
でも直義無気力説はわかる
というか病気だと思ってる
きっと本当に病死だよ 「ウルトラマンが泣いている」っていう本を読むと、円谷一族の権力争いは観応の擾乱より酷かった 観応の擾乱は天下の大乱だぞ。昭和の生ぬるい一家系のお家騒動と比べること自体がナンセンス
あまり太平記を愚弄するなよ >>620
この時代の政治史をまともに研究するなら、佐藤さんに噛みつかないわけにはいかないだろう・・・。
まああまりに偉大すぎて乗り越えるのが大変なのは間違いないが でもその前に、無理やり人質を出させて
「異存あるまいの、足利殿」だからなぁw 北条殿が…人質を出せと言われれば人質を出し、戦に出よと言われれば戦に出る…今の我等に、それ以外の道がありましょうや…? このドラマにネプチューン原田泰造が死体役で出てたらしいけどわかる人いる? 死体はいっぱい出てたからDVDあるけど探す気になれないw 久しぶりに総集編を一気見したけど、やっぱり面白いね。
金剛山に登って千早城址も見てきた。
けど根津甚八さんロス(出演されてなかったけど、プラス渡瀬恒彦さんロス)は治らない。 >>631
そんな事言ったら他の出演者で鬼籍に入った俳優さん山程いるだろう
それに渡瀬さんはコッチじゃ無くて真田だろ、自分も好きな俳優さんだけど >>632
渡瀬恒彦は炎立つの御館の印象が強い。
ステレオタイプではない藤原秀衡を演じたから特に。 へえ、尊氏って鎮守府将軍にもなってたんだな。奥州に行ったことないのに何故なのか 源頼義と八幡太郎義家出てたな
佐藤慶の頼義のヒールっぷりと
佐藤浩市の義家が強調する振りをしながら裏で陸奥守就任阻んだ清衡に対しての罵詈雑言言った後に
あの男ならば〜って認める場面が良かった >>637
征夷大将軍に出来ない代わりの埋め合わせでしょう。
まあ歴代の征夷大将軍だって、東北地方に足を踏み入れたことのない人物が大半だけどな。
あと鎮守府将軍は、歴史的には陸奥守が兼帯することが比較的多い官職なので、尊氏を
鎮守府将軍、北畠顕家を陸奥守とすることで、建武政権下での2つの小幕府というべき
足利兄弟の鎌倉将軍府と北畠親子の陸奥将軍府を互いに牽制させるような意図が
あるようにも思える。 >>641
征夷大将軍の代わり(幕府開かれるからだろうけど)に鎮守府将軍てもう後醍醐むちゃくちゃやんか。公家に嫌われるのもわかるわ。先例もクソもない。頭ぶっ飛んでる。
南北朝期はぶっ飛んだ後醍醐と詰めが甘い尊氏のおかげで全国が滅茶苦茶になっちまったんだな ただ鎮守府将軍も「将軍」ではあるから、幕府を開けないかといえば、そこは微妙だな。
鎮守府将軍の在所を幕府を意味する「柳営」などと称している例はあるし、かつての
奥州藤原氏の柳之御所なんかも同じネーミング。(藤原秀衡は鎮守府将軍になっている)
ただ尊氏の鎮守府将軍は、鎌倉幕府成立以降は100年以上も任命例がなかったのを
突然復活させた感じなのがアレだが。 >>646
「幕府」「柳営」は、近衛大将に限らず、将軍系の官職全般の唐名として用いられるよ。
あと近衛大将の唐名というなら、一番一般的なのは、後世に公家の家格を表す言葉にもなる「羽林」だろう。 ちなみに「幕府」を武家政権という意味で使うようになるのは、実は江戸中期以降だな。
だから、太平記の時代に「鎌倉幕府」「室町幕府」なんて言い方は本当は存在しないが、
それを言い出すと凄く面倒なことになるので・・・w 頼朝さんは前右大将の肩書きで命令文ガンガン出してるんですが。幕府(鎌倉府)の体裁はできていると考えてよろしいでしょう。征夷大将軍は後付けの権威付け・箔付けって感じでしょうか。もちろん頼朝さん以降は征夷大将軍が必須ですがね 鎌倉幕府の組織そのものは、頼朝が右近衛大将どころか公卿になる以前に、実質的に
成立しているけどね。
頼朝の右大将家政所下文に関しては、元々は頼朝が公卿になる以前に袖判下文で出していた
ものを、頼朝の公卿昇進&右近衛大将任官に伴って、発給文書の様式を切り替えただけ。
これは文書様式自体は、朝廷の貴族たちや公卿に昇った平氏一族が出していた、例えば
大納言家政所下文のようなものと同様の公卿の政所(家政機関)の発給文書と基本同じ。 ちなみに、頼朝より後の歴代鎌倉将軍も、最初は発給文書が袖判下文で、その後に
将軍家政所下文のような形に切り替わるケースが多い。
しかし尊氏は、公卿身分であっても政所下文を一切用いず、ずっと袖判下文にこだわる。
そしてその後の室町将軍も、同様に政所下文は用いずに将軍の袖判下文(義満期の
途中からは袖判御教書)が、発給文書の基本となる。 足利将軍の御判御教書(袖判御教書)っていうのは、不思議な形式だよなぁ
御教書って本来は奉書なわけだけど、これは最早奉書ではない将軍の直状だし・・・
でも後の徳川将軍の判物なんかも、基本的には足利将軍の御判御教書の形式の踏襲だね。 >>649
新田義貞は左近衛中将(左中将)になった。
あとは言わなくてもわかるな? そういえば、頼朝が下文の形式を自らの御判から政所下文に切り替えた際に、
千葉・小山辺りの有力御家人が「政所下文は嫌だ、頼朝本人の花押が欲しい!」
とゴネた有名な話があったなw そもそも新たな武家政権の創始者となった人物なんて、歴史上に数えるほどしか
いないわけで。
頼朝の場合、事実上の武家政権を先に樹立した上で、たまたま右近衛大将→征夷大将軍
という官歴をたどった結果、彼の政権は遥か後世に「幕府」と通称されるようになった。
そして頼朝の政権と同じような体裁をとった尊氏や家康の政権も、後世同様に「幕府」と
言われるようになった。
歴史的事実としては、これがすべてであり、その他の歴史上に実例がないケースについて、
可能かどうかを論ずること自体が、ハッキリ言ってナンセンスだろう。 なにをいきなりキレてんだか?
>>658
なんでわかりきったことを聞くのん? 三位の中将ならば、政所を備えられ、侍所となるべき機関を置けば、実質的に幕府を設けることは可能。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています