【2020年 大河ドラマ】麒麟がくる part4
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>>662
吉乃の夫が土田弥平次を指すなら出典元は武功夜話だし
明智左馬助(三宅弥平次)なら生駒家子孫の推測であってまさに独自研究
どっちにしろ与太話レベルの信憑性しかない >>666
武功夜話にしろ生駒家の家譜にしろ
あるなら独自研究とは呼ばないな
他に信憑性の高い史料があるわけでもなし 他に無ければ消去法で俺が真実論w
初めから何も無かった可能性も有ると言うのに… そもそも、信長の側室になる前の生駒氏が未亡人だってことは確かなの? >>669
生駒家の家譜(家系図)にそう書いてある
>>668
5ちゃんの名無しであるお前より近い血縁の人間がそう言ってるんだし
武功夜話に真実が語られている可能性もあるわけだしな
それでもそこまで武功夜話を全否定したいなら
御ツマキが信長の側室になるまでの過程を説明してみてくれ >>670
少なくとも子孫さんは「吉乃」と言う名前は創作
って立場なんじゃないの? >>663
頼芸の生涯は放浪人生と言っても過言じゃないけど行った先々でも
それなりの生活を送って最期は美濃で息を引き取ったそうだから
道三に追放されたことがむしろ幸いだった部分もあるような気がするなあ
彼の放浪遍歴:尾張→近江→常陸→上総→甲斐→美濃 生駒氏に関して確実なのは生駒家出身で信長の次男である信雄の母ということだけ
光秀と接点らしい接点もないしこのドラマに出てくることもないだろ >>670
>それでもそこまで武功夜話を全否定したいなら
>御ツマキが信長の側室になるまでの過程を説明してみてくれ
それと、そこまでの話題と、この提起になんの関係があるのかな 「御ツマキ」の「御」のくずし字は「ツ」に似てるから写した時の重複だという説があるよ
「妹のツマキ」と「御」の無い記述もある
「ツマキ」は側室と決まってるわけでも無いよ
猪子兵助と並んで記載されてるそうだから信長に近侍してたのが推測されるけど
信長のお気に入りだというだけでよくわかってない 被害甚大だった台風で土蔵が崩れて発見! って経過は上手いようなで胡散臭いのだが
しかし先祖の誰かが書いた(創作)が忘れ去られていたものだったのかなとも思う
武功はあの家のための
「シジツ年表を一応は参考にしながらも要所要所に先祖粉飾の創作も取り入れた」
歴史を題材にしたご先祖様アゲの創作物語のようなものだと思ってる
織田家については「自分ちの先祖は〇〇でー」って粉飾創作したものの概要だけ発表し
かつも一般公開も研究者の検証もさせない某家の覚書とかも武功の派生みたいなものだな >>673
半分以上が嵩ましとしても無からの創作ではなくベースになった伝承があった可能性はある
元キリシタン大名だしな
>>675
スレを読み直してくれ >>676
煕子の妹のその後のエピソードとして
信長に近侍してた説というのはドラマ的には面白いのかな >>673
「偽書武功夜話の研究」等を読めば分かるけど、残念ながらあれはほぼ創作と言っていい
それくらい有り得ないことだらけの内容 武功夜話は歴史小説みたいなもんだろ
実在の人物、実際に合った出来事を作者流にアレンジした創作物
吉乃はその小説での生駒氏の名前であって小説名だな >>680
吉乃の夫が明智長山城で討死したという記述はどう否定されている? >>676
その「御」と「ツ」が似ているという事で
「御マキ」という解釈をしてる人もいるらしい
お牧だと光秀の母親と同じ名前になるが >>678
頼芸にキリシタン説なんてあったっけ?
>>677
織田家関連の覚書ってどの史料? >>684
「御マキ」
国盗りでは金柑の妻がお槙だな 光秀の妻の実家も光秀の妹の名も光秀の母の名もみんな「 ''' マキ」
なんだこれは… >>683
そもそも土田弥平次自体が創作であって実在の人物ではない >>685
以前にこの板や歴史板でも話題になったことだけどね
織田秀信(三法師)の子孫だという西山家
当主は愛知県に 「西山自然歴史博物館」という私設博物館をもち、
そこにはなんと 「織田信長のデスマスク」 が伝わっている
本能寺の変のさいに弥助が信長のクビを持ち出して作成云々・・の来歴とのこと
学術研究がなされているかは謎
その西山家は自家が秀信の子孫であると言っている
根拠は 「西山家文言覚書秘伝録」 というもの
その文書では、「信忠の母の名は吉乃」 「三法師を産んだのは武田の松姫」
そう書かれているということ
信忠母の名を吉乃としている部分に注目
自分はやはりコレも後世の 「創作」 だと思っている。史料と言う気もない
いろいろと書き足したいことも有るけどスレチになるし止めとく
でもまあ興味があったら色々と検索して調べてみてください >>687
ツマキは、普通に考えると妻木で光秀の妹ではなくひろこの妹だと思う。
この人は信長への陳情を取り次いだりして有能な女性だったようだね
お牧の方というのは、あまり信用できない系図に光秀の母と書いてあるだけなので気にする必要もない
>>683
三宅弥平次の父は、足利義昭が美濃に行ったときに活躍していたので、
その子供である弥平次は若いと思う。たぶん吉乃とは世代が違うんじゃないかな
となると、吉乃と明智との縁はないということに >>691
その解釈なら煕子と兼役できるな
妹役で顔がちゃんと映るなら
煕子の痘痕エピソードもやってもらえそう >>690
横からですまんが自分がわかっている≠他人もわかっているが
普通なのになにドヤ顔で前にも話題になったとか言ってるのかと
しかも史料と言う気はないとか自分でいいながら武功否定論拠として
西山家史料を引き合いに出すとか矛盾してるじゃん
因みに西山家のそれは一般公開はしていないが国会図書館で読めるから
研究しようと思えばできるものだし西山家は柏原も天童も江戸期から信忠の
末裔として認めていて付き合いもあるそうだからその覚書が根拠というわけでも
なさげだけどな(付き合いなどに関しては以前の信サミで織田家末裔から証言あり)
まあ西山家の現当主が人がいいのか人を信じやすいのか胡散臭いのに
利用されて怪しさ倍増したのは確かだな
松姫云々については史板あたりで真面目に考察されてるのを読んでから
頭ごなしに否定することもないんじゃねと見方変わったな、俺はね >>689
つまり三宅弥平次と吉乃のエピソードにしても問題ないわけだ >>696
吉乃というより煕子や御ツマキの明智長山城の戦いでのエピソードだな 高槻周辺が被害大きいみたいだしその辺りのご当地武将と言えば高山右近じゃね?
やや宗教色が強すぎるけど割と大河にしやすそうな人生送ってるし そういえば東日本大震災で急きょ八重になったけど
本来は2013年は光秀大河だったという噂があったな >>700
八重の桜のタイトル発表されたのはかなり遅かったし
主役の綾瀬はるかは売れっ子だから最初から大河主役でスケジュールを抑えてただろ
2013年は最初から女大河 ただの噂話をちょっと思い出しただけだから気にすんなよ 熊本の方が甚大だったから復興大河やるならまず熊本がくるだろ 来年の金栗は熊本県の人だし、ドラマ館ができる玉名市は熊本市の隣だから
実質熊本復興大河
今年の西郷どんも最後熊本関わるしな >>694
横からだが
西山氏の博物館とか信長のデスマスクを検索して見てみたが
何というか申し訳ないが、ちょっと怪し気な雰囲気はアリアリある
でも柏原織田や天童織田家が西山家を秀信末裔と認めて親交があるんだ?
その文書以外ではなく、江戸時代にすでに何かしら確たる根拠が有ったのかな ごにょごにょ理由を付けたって、
「吉乃」という名前は創作なわけだからな
ドラマでどんな創作をしようと基本的に自由だけど、
「吉乃」という名前を出して「研究」とか言っちゃうと、
それはもうインチキ研究としか言えんw 953 日曜8時の名無しさん sage 2018/04/22(日) 02:01:31.13 ID:mlIx1kRr
>>948
なんで男言葉使ってんのおばさん >>705
江戸時代からと織田側が言ってるということは何かしらあるんだろうね
ただ江戸期に編纂された織田家の史料に甲斐の武田遺臣の間でブドウ栽培が
盛んになったのは秀朝の影響があったみたいな記述があるってその考察の流れに
書かれてあっておもしろいなと(笑)
(蛇足だが松姫の墓の近くにも件の家と同じ姓の墓があるらしい…)
なまじ西山家が高野山や塔頭の記録にもでてくるような家だから研究者も
気にはなっているという噂もあるっぽい >>706
明智長山城落城の際に一旦は煕子は越前に逃れた光秀と別れているのでは?
という可能性について弥平次と吉乃の例を出しただけで
武功夜話の信憑性についてはどうでもいい 応仁の乱本がベストセラーになってるからあるかもな
もしくは尼子で山中鹿之助とか…
七難八苦を与えたたまえが流行語になったりしてw >>712
ガラシャが1563年生まれ
ガラシャの母が煕子なら越前赴任時代の光秀と一緒にいないと誕生しない
明智長山城の戦い以前に誕生した光秀の子はいないため
光秀は越前時代に妻を持ったことになっているのでは 光秀は朝倉家と親しい浅井家と戦っているから
朝倉家に仕えなかったんじゃないか? 光秀が越前朝倉家に仕えてたというの太田牛一の記録にそう書かれてたはず 光秀が越前朝倉家に仕えてたというの太田牛一の記録にそう書かれてたはず 光秀が朝倉家に仕えたという記述は太田牛一と僧の聞きかじり話なので
信用性がいまいち あらすじに朝倉の名前がないけど仕えない説でやるのかな
流れとしては美濃から落ち延びて京で義昭に会うとなってるけど 京(細川)→越前→京(義昭)
この流れ希望
美濃とか道三とか見飽きた感 大河の光秀って大体浪人時代から信長の家臣になる辺りが初登場なことが多いし
美濃で道三の家臣やってた時代は飽きるどころかほとんど描かれたことなくね >>615
608ではないけど、誰もl答えてないみたいなのでちょっと抜粋&要約
京の人、立入左京亮入道隆佐は「光秀は美濃国(岐阜県)住人、とき(土岐)の随分衆」と記していて、
当時の宣教師がつくった日葡辞書には「随分の人」の項があり、「際立った人」と訳されている。
明智は美濃の名族土岐氏の上級家臣だったようだ。
フロイスも「光秀の子女は優雅で美しくヨーロッパの王族のようだ」と書いているので、光秀一族は高貴な雰囲気を持っていたということが伺える。
しかし美濃の出自は事実かもしれないが、光秀の前半生は王族などには程遠く
「朝夕の飲食さへ乏しかりし身」(当代記)という有様。
踊り念仏の僧の書「遊行三十一祖京畿御修行記」天正8年(1580)1月24日条には
「明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一族牢人たりしか、越前朝倉義景頼み申され、
長崎称念寺前に十ヶ年居住」とあるので
土岐氏の親類が牢人になって、越前(福井県)の朝倉義景を頼り寺の門前に10年住まわせてもらった。
しかしやがて光秀は朝倉の元から細川に仕えるようになる。
興福寺の多聞院の日記に「細川ノ兵部大夫カ中間ニテアリシ」とある。
中間というのは荷物運びなどの下働きであった。
戦国末期に少年で100歳まで生きた老人の回想「老人雑話」には
「明智初め細川幽斎(藤孝)の臣也」とある。
細川家の家臣にはなったが、家老の米田助右衛門などが「悪しくあたり」いじめたので
光秀はこらえきれず織田に仕えたいと願うようになった。
平戸松浦氏が編んだ「武功雑話」が、この経緯に詳しい。
ここでも「明智はもと細川幽斎の家来也」とある。
細川家家老の松井佐渡から嫌われ、光秀は信長へ奉公に出たいと願っていた。
ある日幽斎から「信長へ使者へ行け」と言われ、絶好の機会と信長に直訴して家臣にしてもらう。
光秀はそのまま細川へは帰らず、使者の返事は「飛脚にて遺」したという。
のちに明智は頭角をあらわし出世。家老の松井に会った時に
「あなたに気に入られなったから出世できた。仇は恩で返したい」と告げると
すかさず松井は「では娘子を与一郎(忠興)の嫁に貰いたい」といい、細川家はガラシャという美女を手に入れた。
どうも抜粋と言うよりほぼ全文になってしまったけどw
これで見ると初期の頃には「元々は高貴な一族」というのと、「今は貧乏な牢人ぐらし」というのは
べつに並び立つ設定でもおかしくないみたい。 >>715
永禄8年頃、高嶋田中城で籠城していたという記述があるやつかな
明智光秀が医学書を口伝で伝えたのを幕府奉公人が書き写したのを幕府の医者が注釈付けて引用してる文献
つまり、光秀は医学書を口伝するほど医学に明るかった
造船、築城、橋梁などの土木建築も明智家は当時最先端の技術を持ってた
光秀が信長の命で他国の検地の監督にも出向してるのも読んだことあるし
刀剣や鉄砲にも技術があったみたいだし、兵法なんかも当時の武士の教養だったそうだし
おまけに医術もあった
頭良い人だったというか、お勉強好き? そろそろ歴史スレが欲しいが 光秀 義昭軽くまとめ
1563 36才 永禄6年 永禄六年諸役人符番帳 明智 足軽衆 (或は走衆)
1564 37才 永禄7年
1565 38才 永禄8年
5/19 足利義輝 三好三人衆 武衛襲撃 義輝惨殺さる
一乗院覚慶(義秋)松永久秀に捕縛 大和興福寺に幽閉監視
5/20 若狭武田義統 朝倉義景へ義輝凶報を伝える
6/14 直江実綱 朝倉義景へ義輝凶報を照会
7/28 朝倉細川の調略 一乗院脱出 甲賀衆和田惟政により甲賀和田舘へ
8/5
大覚寺義俊(義輝 義秋叔父 近衛家) 覚慶南都脱出を上杉輝虎宛書状で報じる
「一乗院南都御座所儀 居御番候而 松永堅雖申付候 朝倉左衛門督令直談 種々廻調略
去月廿八日至甲賀和田城被引退候」
永禄八年 八月五日付 上杉古文書
11/21 三好三人衆松永の不和激化 間隙を計り野洲郡矢島へ遷座
1566 39才 永禄9年
6月 細川藤孝尾張へ 和田惟政美濃へ下り参洛要請
8/3 三好三人衆 義秋上洛阻止近江坂本まで進出
8/29 六角 矢島衆 謀叛 矢島御所襲撃の風聞 義秋夜陰に紛れ琵琶湖を渡る
足利義秋 妹婿若狭武田義統次いで朝倉義景を頼る
閏9/8 足利義秋 越前朝倉金ヶ崎 移座
永禄9年10/20 米田貞能(奈良御伴衆) 近江坂本で針薬方写本
沼田勘解由左衛門清延(二番詰衆) 高嶋田中籠城之時
針薬方奥書「右一部 明智十兵衛尉口伝也」
11月 細川米田 美濃へ織田信長参洛の要請 米田文書
11/21 足利義昭 一乗谷へ赴く 朝倉義景に出兵要請 >>724
頭いい人といっても他の武将だって戦しかできないわけじゃない
加藤清正や藤堂高虎は築城の才能あるし
徳川家康も薬学の知識あるし
伊達政宗は料理の才能あるし流行のセンスも最先端
上杉謙信琵琶奏者
武田信玄温泉評論家 >>726
加藤や藤堂は豊臣系列だから
土木建築関係は仕事の一環だね
政宗は鼓太鼓茶
去年の今川氏真とちがって
趣味の域こえてる一流 >>721
道三や濃姫以外の斎藤家はどう描かれるか
個人的に龍興の扱いが楽しみ >>723
磯田の文章記載おつかれさま
磯田がいろいろな資料から都合のよいものをつまみ食いしている様子がよくわかる >>725
↓整理して欲しい
ピコ太郎誕生〜道三と快川〜小見の方輿入れ〜マムシの国盗り物語〜天文13年加納口の戦い(〜煕子と婚姻)〜天文16年加納口の戦い〜濃姫嫁ぐ〜川中島〜宗滴昇天〜長良川の戦い〜長山明智城落城
朝倉義景〜桶狭間〜義龍昇天〜永禄の変・剣豪将軍討死〜高島田中城籠城〜義秋還俗〜細川藤孝〜稲葉山城落城〜使者光秀〜十五代将軍爆誕〜本國寺の変
京都奉行のようなもの〜傀儡将軍〜金ヶ崎撤退戦〜久世地頭〜比叡山焼き討ち〜坂本城ですが〜信長包囲網〜FA宣言〜おつやの方〜恵那明知城の戦い〜
信玄上洛〜信玄昇天〜室町終幕〜龍興・義景死す〜高ころびにあおのけに〜いつもの髑髏酒〜長島ポグロム〜長篠大勝〜いっきに撫で斬り〜逆さ磔
黒井の赤鬼〜波多野に敗退〜木津でリタイア〜煕子死す〜紀州も失敗〜謙信上洛〜謙信昇天〜久秀爆死〜播磨衆・村重離反〜赤鬼昇天〜秀長&秀満活躍〜波多野処刑〜英雄凱旋〜
馬揃え〜一色下す〜本願寺降伏〜佐久間・林追放〜長宗我部無用論〜武田征伐〜恵林寺焼き討ち・快川焼殺〜利三死罪〜饗応と援軍〜時は今〜本能寺の変〜大逆人〜山崎合戦〜三日天下 >>729
磯田は別にこの大河の考証じゃないだろ今の所は。
>>730
政宗は「信長のシェフ」の時代より後の世代だろ〜
今でいうと三英傑がイチロー世代なら
政宗は大谷世代みたいな。
>>723
足利義昭については名前も挙がらずか? 953 日曜8時の名無しさん sage 2018/04/22(日) 02:01:31.13 ID:mlIx1kRr
>>948
なんで男言葉使ってんのおばさん >>723
斎藤道三もいない
ドラマでは道三の家来から始まって朝倉で10年→細川→織田なのかな 「朝倉始末記」に明智光秀が家臣だったとの記録がない
「信長公記」でもそれらしい記述がない
朝倉家臣だったのに織田方になって滅ぼしたなら絶対あるはずなのにないという事は
近くの称念寺に住んでても家臣ではなかったという事だと思う
家臣なら称念寺よりもっと近くに住むだろうし 称念寺(別名 長崎城) 時宗 北国一の念仏道場であり朝廷祈願所、室町将軍祈願所
東に北国街道 西に九頭竜水系兵庫川 南は湿地と湖 北に堀と寺町船寄
若狭 越前 越後の海、水運の要地に信者勢力を持つアジールとなる
代々上人勅許 薗阿上人を称する(園阿上人とも)
時衆は将軍に近侍し同朋衆(⭕⭕阿弥)として連歌、能、茶を施し
時に、戦となれば陣僧として医療、十念を施す
義昭も越前滞在時に能 連歌 茶会を催してるから
その繋がりで物語を作っても面白い 光秀は、京の幕臣区画に屋敷を持っていたから
越前に頻繁に行っていた幕臣で武家だろう
光秀が武家でなければ、高嶋田中城の戦いに光秀が参加していた説明ができないし
また、光秀が朝倉家臣なら一乗谷に住んでいるはずだが
城下町から離れたところに住んでいたという記述があるのも奇妙 >>741
信長上洛前に光秀がどこに住んでいたのかはわからない
信長上洛2年後に光秀の屋敷が洛中にあったからって
この前年に信長は戦で焼失した将軍御所を足利義昭のために新造しており
(それまで将軍御所があった場所とは違うところ)
それ以降に整備されたものと考えて問題ない
また、光秀は越前に来た際、長崎称年寺の末寺である西福寺に住んでいる
遊行上人の記録によれば光秀は朝倉氏の庇護のもと
家族とともにここに10年間住んだという
http://shonenji.net/aketi/ 信長上洛前に、浅井氏に攻められていた高島田中城に籠城していたということは
光秀は、浅井氏と強固な関係の朝倉氏とは縁が薄かったということだろう >>743
光秀が高島田中城にいたと思われる1566年に
足利義昭は朝倉義景を頼って一乗谷に入っている
光秀が義昭を保護する朝倉の敵対勢力の味方をしていたなら
幕臣だというのはますます嘘になる >>700
本当は綾瀬で細川ガラシャの予定だったという噂は聞いたことある
主要キャストはそのままで急遽題材だけ変わったのかなと思った >>744
光秀が幕臣でなければ、京の幕臣の屋敷街に屋敷を建てられないと思う。
また、光秀が朝倉家臣なら、高嶋高田城に籠城しないと思う。
それと、1566年に光秀が足利義昭と一致しない行動をとっているのなら
当時、光秀は義昭支持ではなかったかもしれない。
そのころには、義昭は幕臣大多数の支持を得ているわけではなかった。 永禄9年なら江北は浅井の覇権が及んでるよ
浅井は永禄3年(1560年)の野良田の戦いで六角方の高島衆は放逐されて
坂本以北、堅田から高島の湖西江北は浅井の支配域になって
浅井朝倉を頼って幕臣を上洛ルート所々に置いて拠点作りと義秋上洛の馳走要請を
西は島津、美濃斎藤、尾張織田 越後上杉 東国は佐竹まで方々に始めている
三人衆松永義継はお互い争いも始まり合わせて阿波御所将軍擁立でてんやわんや
でも義秋上洛工作をしても還俗も髪置きも加冠も人数揃えも済んでない
将軍は阿波御所が推され、そうこうしてる間に美濃と尾張で争い
もう本当にてんやわんやですよ >浅井は永禄3年(1560年)の野良田の戦いで六角方の高島衆は放逐されて
>坂本以北、堅田から高島の湖西江北は浅井の支配域になって
これが書かれている文献は何? >>746
朝倉家の家臣ではないから
親信長であった義秋援護に高嶋田中城に個人的にかけつけたのでは? >>745
「ほんとは八重でなくてガラシャだったはずなのに・・・」
は、この板で疑問視されながらもガラシャ好きがずっと言い張っていることだが
その件については
同志社の神学部の先生が新島八重大河は何も誘致等はしていないことに寄せて
(八重大河はまず震災復興、福島活性化大河だし誘致なんてしてないからね)
京都の諸行政団体が熱心に大河誘致を続けているというのに
「何もしていない新島八重が大河化されることになった」旨の発言をしたのを
↓
なぜかその発言が「実はガラシャ大河の予定だったのだ」という解釈に進み
この板でそれが真実だったかのように書きこまれ続けた。という事のはず 明智光秀がいつ信長の家臣になったかは確定できる資料は無くて
意見が分かれるところみたいだけど
私見だけど、なんとなく幕臣の屋敷が並ぶところにあった光秀の屋敷に信長を宿泊させた時、
光秀が信長の家臣になると決まったのではないかと思う
他に信長が家臣の家に宿泊した事は無いし
ゆっくりこれからのことを話す機会ができて、その時お互い意気投合したのかなと >>753
焼け野原で将軍御所すらなかった都なのに
光秀は先祖代々の有力幕臣で豪邸を維持、信長を迎え入れたとは考えづらい
それならばもっと初期から幕府の記録や公家の日記などに
細川よりもずっと前に名前が出るはずだからね
しかも光秀が高嶋田中城にいたなら反義昭は間違いない
幕臣なら即刻追放で義昭の側近になれるはずもない
信長が自身の家臣である光秀を義昭の目付として京に住まわせたため
義昭は光秀を追い払えなかったというのならばわかる 鹿之介との逸話にも風呂の話があるけど
光秀はよっぽど風呂好きだったのか >>756
洛中洛外図を見れば、京は焼け野原ではなかったことがわかる まあ宣教師も京は美しいとか色々褒めちぎってるから
今言われてるほど焼け野原じゃなかったかも 953 日曜8時の名無しさん sage 2018/04/22(日) 02:01:31.13 ID:mlIx1kRr
>>948
なんで男言葉使ってんのおばさん >>757
いいお話だね
風呂は戦国武将の人気のおもてなしだったみたいだけど
明智光秀は特にお風呂の逸話多いよね
妙心寺の明智風呂も光秀供養の為らしいから風呂好きだったんだろうね
天海もお風呂好きだよねw >>763
合力の書状届けに来た光秀の家来も真田昌幸から
「10日ほどゆるりと湯にでも浸かられよ」
って言われて引き立てられていったしなあ・・・ >>753
>信長が家臣の家に宿泊した事はないし
都には門構えも高く庭も広く部屋数も多いような大刹がたくさんありますから
>>756
焼野原というほどでは無かったのでは
でも「光秀が先祖代々の有力幕臣で豪邸を維持」ってことは自分も無いと思う
豪邸もってた有力幕臣だとしたら何かしらの記録や日記に記述があるだろうしなー
>>758
ああいう図は誇張しての華やかさがあるもんだよ
美麗で華やかな都」を見せる意図あって描かれたものが多いんだから
だからこそ武将間の贈答にも使われた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています