【2020年 大河ドラマ】麒麟がくる part4
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>>725
↓整理して欲しい
ピコ太郎誕生〜道三と快川〜小見の方輿入れ〜マムシの国盗り物語〜天文13年加納口の戦い(〜煕子と婚姻)〜天文16年加納口の戦い〜濃姫嫁ぐ〜川中島〜宗滴昇天〜長良川の戦い〜長山明智城落城
朝倉義景〜桶狭間〜義龍昇天〜永禄の変・剣豪将軍討死〜高島田中城籠城〜義秋還俗〜細川藤孝〜稲葉山城落城〜使者光秀〜十五代将軍爆誕〜本國寺の変
京都奉行のようなもの〜傀儡将軍〜金ヶ崎撤退戦〜久世地頭〜比叡山焼き討ち〜坂本城ですが〜信長包囲網〜FA宣言〜おつやの方〜恵那明知城の戦い〜
信玄上洛〜信玄昇天〜室町終幕〜龍興・義景死す〜高ころびにあおのけに〜いつもの髑髏酒〜長島ポグロム〜長篠大勝〜いっきに撫で斬り〜逆さ磔
黒井の赤鬼〜波多野に敗退〜木津でリタイア〜煕子死す〜紀州も失敗〜謙信上洛〜謙信昇天〜久秀爆死〜播磨衆・村重離反〜赤鬼昇天〜秀長&秀満活躍〜波多野処刑〜英雄凱旋〜
馬揃え〜一色下す〜本願寺降伏〜佐久間・林追放〜長宗我部無用論〜武田征伐〜恵林寺焼き討ち・快川焼殺〜利三死罪〜饗応と援軍〜時は今〜本能寺の変〜大逆人〜山崎合戦〜三日天下 >>729
磯田は別にこの大河の考証じゃないだろ今の所は。
>>730
政宗は「信長のシェフ」の時代より後の世代だろ〜
今でいうと三英傑がイチロー世代なら
政宗は大谷世代みたいな。
>>723
足利義昭については名前も挙がらずか? 953 日曜8時の名無しさん sage 2018/04/22(日) 02:01:31.13 ID:mlIx1kRr
>>948
なんで男言葉使ってんのおばさん >>723
斎藤道三もいない
ドラマでは道三の家来から始まって朝倉で10年→細川→織田なのかな 「朝倉始末記」に明智光秀が家臣だったとの記録がない
「信長公記」でもそれらしい記述がない
朝倉家臣だったのに織田方になって滅ぼしたなら絶対あるはずなのにないという事は
近くの称念寺に住んでても家臣ではなかったという事だと思う
家臣なら称念寺よりもっと近くに住むだろうし 称念寺(別名 長崎城) 時宗 北国一の念仏道場であり朝廷祈願所、室町将軍祈願所
東に北国街道 西に九頭竜水系兵庫川 南は湿地と湖 北に堀と寺町船寄
若狭 越前 越後の海、水運の要地に信者勢力を持つアジールとなる
代々上人勅許 薗阿上人を称する(園阿上人とも)
時衆は将軍に近侍し同朋衆(⭕⭕阿弥)として連歌、能、茶を施し
時に、戦となれば陣僧として医療、十念を施す
義昭も越前滞在時に能 連歌 茶会を催してるから
その繋がりで物語を作っても面白い 光秀は、京の幕臣区画に屋敷を持っていたから
越前に頻繁に行っていた幕臣で武家だろう
光秀が武家でなければ、高嶋田中城の戦いに光秀が参加していた説明ができないし
また、光秀が朝倉家臣なら一乗谷に住んでいるはずだが
城下町から離れたところに住んでいたという記述があるのも奇妙 >>741
信長上洛前に光秀がどこに住んでいたのかはわからない
信長上洛2年後に光秀の屋敷が洛中にあったからって
この前年に信長は戦で焼失した将軍御所を足利義昭のために新造しており
(それまで将軍御所があった場所とは違うところ)
それ以降に整備されたものと考えて問題ない
また、光秀は越前に来た際、長崎称年寺の末寺である西福寺に住んでいる
遊行上人の記録によれば光秀は朝倉氏の庇護のもと
家族とともにここに10年間住んだという
http://shonenji.net/aketi/ 信長上洛前に、浅井氏に攻められていた高島田中城に籠城していたということは
光秀は、浅井氏と強固な関係の朝倉氏とは縁が薄かったということだろう >>743
光秀が高島田中城にいたと思われる1566年に
足利義昭は朝倉義景を頼って一乗谷に入っている
光秀が義昭を保護する朝倉の敵対勢力の味方をしていたなら
幕臣だというのはますます嘘になる >>700
本当は綾瀬で細川ガラシャの予定だったという噂は聞いたことある
主要キャストはそのままで急遽題材だけ変わったのかなと思った >>744
光秀が幕臣でなければ、京の幕臣の屋敷街に屋敷を建てられないと思う。
また、光秀が朝倉家臣なら、高嶋高田城に籠城しないと思う。
それと、1566年に光秀が足利義昭と一致しない行動をとっているのなら
当時、光秀は義昭支持ではなかったかもしれない。
そのころには、義昭は幕臣大多数の支持を得ているわけではなかった。 永禄9年なら江北は浅井の覇権が及んでるよ
浅井は永禄3年(1560年)の野良田の戦いで六角方の高島衆は放逐されて
坂本以北、堅田から高島の湖西江北は浅井の支配域になって
浅井朝倉を頼って幕臣を上洛ルート所々に置いて拠点作りと義秋上洛の馳走要請を
西は島津、美濃斎藤、尾張織田 越後上杉 東国は佐竹まで方々に始めている
三人衆松永義継はお互い争いも始まり合わせて阿波御所将軍擁立でてんやわんや
でも義秋上洛工作をしても還俗も髪置きも加冠も人数揃えも済んでない
将軍は阿波御所が推され、そうこうしてる間に美濃と尾張で争い
もう本当にてんやわんやですよ >浅井は永禄3年(1560年)の野良田の戦いで六角方の高島衆は放逐されて
>坂本以北、堅田から高島の湖西江北は浅井の支配域になって
これが書かれている文献は何? >>746
朝倉家の家臣ではないから
親信長であった義秋援護に高嶋田中城に個人的にかけつけたのでは? >>745
「ほんとは八重でなくてガラシャだったはずなのに・・・」
は、この板で疑問視されながらもガラシャ好きがずっと言い張っていることだが
その件については
同志社の神学部の先生が新島八重大河は何も誘致等はしていないことに寄せて
(八重大河はまず震災復興、福島活性化大河だし誘致なんてしてないからね)
京都の諸行政団体が熱心に大河誘致を続けているというのに
「何もしていない新島八重が大河化されることになった」旨の発言をしたのを
↓
なぜかその発言が「実はガラシャ大河の予定だったのだ」という解釈に進み
この板でそれが真実だったかのように書きこまれ続けた。という事のはず 明智光秀がいつ信長の家臣になったかは確定できる資料は無くて
意見が分かれるところみたいだけど
私見だけど、なんとなく幕臣の屋敷が並ぶところにあった光秀の屋敷に信長を宿泊させた時、
光秀が信長の家臣になると決まったのではないかと思う
他に信長が家臣の家に宿泊した事は無いし
ゆっくりこれからのことを話す機会ができて、その時お互い意気投合したのかなと >>753
焼け野原で将軍御所すらなかった都なのに
光秀は先祖代々の有力幕臣で豪邸を維持、信長を迎え入れたとは考えづらい
それならばもっと初期から幕府の記録や公家の日記などに
細川よりもずっと前に名前が出るはずだからね
しかも光秀が高嶋田中城にいたなら反義昭は間違いない
幕臣なら即刻追放で義昭の側近になれるはずもない
信長が自身の家臣である光秀を義昭の目付として京に住まわせたため
義昭は光秀を追い払えなかったというのならばわかる 鹿之介との逸話にも風呂の話があるけど
光秀はよっぽど風呂好きだったのか >>756
洛中洛外図を見れば、京は焼け野原ではなかったことがわかる まあ宣教師も京は美しいとか色々褒めちぎってるから
今言われてるほど焼け野原じゃなかったかも 953 日曜8時の名無しさん sage 2018/04/22(日) 02:01:31.13 ID:mlIx1kRr
>>948
なんで男言葉使ってんのおばさん >>757
いいお話だね
風呂は戦国武将の人気のおもてなしだったみたいだけど
明智光秀は特にお風呂の逸話多いよね
妙心寺の明智風呂も光秀供養の為らしいから風呂好きだったんだろうね
天海もお風呂好きだよねw >>763
合力の書状届けに来た光秀の家来も真田昌幸から
「10日ほどゆるりと湯にでも浸かられよ」
って言われて引き立てられていったしなあ・・・ >>753
>信長が家臣の家に宿泊した事はないし
都には門構えも高く庭も広く部屋数も多いような大刹がたくさんありますから
>>756
焼野原というほどでは無かったのでは
でも「光秀が先祖代々の有力幕臣で豪邸を維持」ってことは自分も無いと思う
豪邸もってた有力幕臣だとしたら何かしらの記録や日記に記述があるだろうしなー
>>758
ああいう図は誇張しての華やかさがあるもんだよ
美麗で華やかな都」を見せる意図あって描かれたものが多いんだから
だからこそ武将間の贈答にも使われた 間違いなくエンディングは春日局と天海は出るはず
光秀かどうかはともかく
天海だけは顔出さずに声もなしで周りだけが勝手に喋ってエンド
最後の紀行も日光東照宮で締め そんで、こう締めくくれば更に上出来
「歴史は流れ近代、金天海は日本共産党、朝鮮総連で活躍、日本の社会に大きな影響を残した・・・」 そして現在、光秀は今も生きている
金光秀さん、朴光秀さん、文光秀さん、徐光秀さん、鄭光秀さん
一人一人に取材しに行って近況を話してる映像ざっと流すともっとええやん
頑張れNHK 李光秀さん 梁光秀さん も追加で
まあ出るわ出るわ
光秀ってホントに朝鮮人に多いんやね >>766
天海説はハセヒロさんも知ってたけど
けっこう有名なのかね
歴ヲタぐらいしか知らないと思ってた >>765
>でも「光秀が先祖代々の有力幕臣で豪邸を維持」ってことは自分も無いと思う
答えはやっぱこれでしょ↓
21:人間七七四年[sage]
俺、俺だよ俺俺
ちょっとやんごとなき身分なんだけど1件家屋敷都合してくれないかな?
今でいうところのオレオレ詐欺 天海を出したら、負けだと思う
光秀と別人でということならまだ許せるけどw 信長を討つ話
秀吉+落ち武者狩りで討たれる話
これがドラマのクライマックスなのに何十年も後に天海になって活躍する話なんかやっても面白くなるとは思えない
それよりも中国大返しのカラクリをちゃんと描くのか
それとも単に そういうことがありました、で流すのか
伝わるとおりのタイムラインでは、地図と地形を精密に把握した上でのベストルートで望んだ最新装備の米兵の行軍速度でも無理、だとされているが・・・ >>772
鮮人は 〜〇〇と名を変えて生き続ける〜
っていうストーリー好きみたいだから、負けだろうがなんだろうがやりたいんじゃないの?
日本名に名を変え日本に居座り続けるとか、自分たちの実体験だし >>773
中国大返しは状況的に十分可能だから秀吉黒幕は有り得ないらしいが
むしろ賤ヶ岳前の美濃大返しの方が凄いとか >>765
言継卿記で、光秀の屋敷が描写され、その近所の屋敷主名も書かれているから
光秀の屋敷は実在していた
>>775
中国大返しは途中のインターバルがあるので可能ということになるが
備中高松城から姫路城区間の秀吉のスピードは説明できないようだ >>770
長谷川はアングラ系の映画ヲタだから知ってそう >>776
二条城造営時に光秀も信長に上洛時の宿泊所も兼ねた屋敷を建ててもらったんだろうな >>766
明智平は絶対に出るはず
光秀=天海じゃないにしてもね >>778
明智家は室町幕府の奉公衆で、京に屋敷を持っていた。光秀の屋敷はこの屋敷と思われる。
永禄の変で破壊されたのは花の御所のみであり、他には影響は及んでいないと考えられる。 信長は永禄12年2月から二条城再建と同時に奉公衆屋敷を新造
義昭と不和になって出奔した近衛屋敷を潰して
二条城東出丸の東に幕府奉公衆の屋敷を建てている
二条城が今で言う武衛陣町の平安女学院 四方三町の外郭
奉公衆の屋敷が直ぐ東の京都御苑近衛邸跡
京に屋敷が無い幕臣用の官舎みたいなもんだろう
なお山科言継の屋敷が烏丸通に面した龍前町から土御門内裏の辺り >>781
近衛邸跡だとちょっと言い方が不味かった
今の近衛邸跡ではなく近衛敷地を没収して
東出丸の東一帯に幕臣屋敷を新造 >>781
>信長は永禄12年2月から二条城再建と同時に奉公衆屋敷を新造
>義昭と不和になって出奔した近衛屋敷を潰して
>二条城東出丸の東に幕府奉公衆の屋敷を建てている
この根拠は? >>784
奉公衆は京に屋敷を持っていた。←「室町幕府と国人一揆」吉川弘文館
永禄の変で破壊されたのは花の御所のみ←公家の日記に火災や大規模破壊の記述がない
>信長は永禄12年2月から二条城再建と同時に奉公衆屋敷を新造
>義昭と不和になって出奔した近衛屋敷を潰して
>二条城東出丸の東に幕府奉公衆の屋敷を建てている
この根拠は? このスレに限らないけど、根拠の史料なり解説本なりも、一緒に書けばいいのにね
光秀の都での屋敷とかは知らないけど、足利義昭と一緒に上洛した直後は、細川藤孝の中間だと言われてたんだよね
それ自体は、勘違いだとしてもそんなふうに見られてる人が、自分の屋敷なんかかまえてたんだろうか
あったとしたら、秀吉たち信長の家臣たちと共同で京都の庶政を担当してた、ごく短期間では
信長の配下になって京都代官みたいな立場になってからだと、京都に常駐しなかったからか、自分の屋敷は無くて、
施薬院とかいう人の家を宿舎にしてたと本に書いてあって、丹波攻めの最中に体調を崩して京に戻ってきた時も、曲直瀬という人の
家で療養したりしたそうで、この頃にはもう都に自分の家は明智家の出張所的なものも含めて、持ってなかったんだろうね 奈良の住人に、光秀は細川の中間と書かれているけど
1568年に、光秀は京のセレブと連歌会をやっている
中間クラスからいきなりセレブと連歌ということは考えにくいので
細川家の中間の可能性は低いと思う 奈良の住人って、大寺院の高僧やろ、細川本人と会話する機会もある人やな
そこで知りたいのが、1568年京のセレブと連歌会ってのはどの史料にあるのかなと >>789
連歌目録
>>789は>>781なら、信長が奉公衆の屋敷を建てた資料を出してほしい >>788じゃないけど
連歌会は記録するから残ってたみたいだよ
永禄11年11月15日信長の側近だった明院良政の連歌会だそうです
細川藤孝・聖護院道澄(近衛前久の弟)・里村紹巴などと共に光秀も出席してるそうだ 953 日曜8時の名無しさん sage 2018/04/22(日) 02:01:31.13 ID:mlIx1kRr
>>948
なんで男言葉使ってんのおばさん >>790
たぶん言継卿記の1569年4月に書いてあることだと思う
近衛家の敷地に奉公衆の屋敷を建築とある
また言継卿記の1570年1月に
奉公衆が集住する屋敷の中に光秀の名前があるので
上記の件と合わせて上洛後に建築された屋敷と自分も思うかな >>788-789
「京のセレブ」?
セレブって著名人とか名士ってのが本来の意味だけど?
間違って「成金」とか「大金持ち」と思ってる人も多いけど。 >>794
池端脚本の「そろばん侍」第一部、面白かった >>793
言継卿記には、信長は禁裏と御城を普請したと書かれているね
近衛家の屋敷地は奉公衆の屋敷になったとも書かれている
信長は天皇と公方の屋敷は建てたが、幕臣屋敷まで建てたとは考えにくい
近衛敷地には、力のある幕臣が屋敷を建てたと考える
また、仮に、信長が奉公衆の屋敷を建てたとして、光秀がその屋敷に住んだとしても
光秀は細川家の中間ではなく奉公衆ということになるね >>790-791
おおーとってもサンクス
ちなみに789は781じゃないよって793が出してくれてるからもう解決やね 個人的には、せっかく残ってる一級史料は全て切り捨てたくないよなぁ
とすると光秀は、細川の中間、石ころ同然(本人談)、将軍側近、己を偽装することに抜け目がない
これらを総合すると、ある時から明智を名乗り始めた偽物とするのが一番近い気がする
現代でも有栖川家を名乗って金集めてた人いたでしょ、あれも長いこと多くの人が気付かなかったんだし >>791
連歌のこと全く分からんけど、
この面々から見ると、信長が企画した代理人たちの連歌会って感じ?
(光秀は義昭代理) >>789
お前の言ってること鵜呑みにすると日本史に名を残してる有名人の半分くらいは朝鮮人ってことになりそうだな
ネトウヨほど朝鮮半島の人材を評価してる奴らはいないとはよく言ったものだ 京都で甲冑着て写真撮影出来るとこあるが、明智光秀プランを用意するそうだ
「光秀の甲冑」と聞いてみんながイメージするわかりやすい甲冑が無いので、前立てを桔梗紋にするくらいみたいだが >>798
>>793は「近衛家の敷地に奉公衆の屋敷を建築とある」と書いているが
言継卿記に書かれているのは禁裏と義昭御所の普請のこと
信長が奉公衆の屋敷を建築したとは書かれていない 【満14歳から、受信″】 耳栓しても、聞こえてしまう、マイトLーヤの世界演説、名づけて『大宣言』
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1529807166/l50
準備は整った、あとは革命起こすだけ、世界をひっくり返す、18億人のサヨクたち! >>797
修正ありがとう
文は「近衛の敷地が奉公衆の屋敷に成った」なので
誰が建築したのか
それとも敷地の建物を接収したのか
自分じゃよくわからん >>801
調べてみたら、李頼朝、李信長、李秀吉はいるのなw (金はいなかった)
で光秀は金光秀、李光秀、朴光秀、文光秀、徐光秀、鄭光秀、梁光秀 趙光秀 許光秀 崔光秀・・・
>今年8月に「オレオレ詐欺」で逮捕されたのは、京都府の宮本こと、張光秀容疑者です。
なんてのもあった >>796
池端氏は体力が心配
確か太平記の時は体調崩されて
後半一部を別の方が書いてた >>799
濃姫やら生駒氏やら明智氏に近しい人物が多い織田氏に明智を偽称するのは難しいだろうね 何故 信長が近衛前久の敷地を接収出来たのか
それは近衛前久が出奔して闕所にされたから
近衛が足利義昭の命に違え出奔と云う理由で関白解任
闕所を簡単に言うと没収して無主地にする
その無主地を武家普請で使ったという事
二条城の近くの近衛敷地を接収して
奉公衆の屋敷を建てたのかは殿中御掟を見れば解る
端的に幕府機構と機能の建て直し 省庁の近くに官舎無いと面倒
パナマ大虐殺 >>809
よく知らんけど、明智って美濃と京の二つに分かれてたイメージ
光秀が濃姫らに「私は京の明智です」と言えば結構誤魔化せちゃいそうなんだが >>814
そしてさっさと後家人から織田家に鞍替えして大出世
ってのは難しいんじゃないだろうか? >>799
山田風太郎の短編「忍者 明智十兵衛」だと、ある人物が途中から明智光秀になってたな
入れ替わり方法は大河じゃ無理だがw にっぽん!歴史鑑定『光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?』
2018年7月2日(月)22時00分〜22時54分
本能寺の変により、評価が対照的な明智光秀と羽柴秀吉。
2人は、織田信長の家臣の中では、外様だったが、信長に評価され、家臣ナンバー1の座を争うほどだった。
2人の出世争い、能力を徹底検証!信長の家臣の中で一番早く「一国一城の主」となったのは光秀だった!
信長の大ピンチで活躍した2人。ところが、手柄は秀吉が独り占めした?その真相は?
信長が評価していたのは、光秀と秀吉、果たしてどちらだったのか。本能寺の変の謎にも迫る!
http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/ 本能寺の変に謎なんかない
殺せるタイミングだから殺してみただけ
それよりも中国大返しのほうが謎が大きい
前人未到のウルトラマラソンで後先考えず全力疾走(背後の毛利から追撃されたら終わり)
睡眠時間もメシ食う時間もまともにない (そもそも野営地を設営する暇もない)
行軍中はどこで合戦になるかも未定 まともにシミュレーションする暇もない
気温が30度を超え蒸し暑い新暦の7月、その移動するだけでも大変なウルトラマラソンの末、疲労のピークで戦闘突入
普通に考えたら インパール作戦の陸軍しかりもはや戦闘できる状況ではないし
そのありとあらゆる面で不利な状況なのになぜか特に危機なく平易に大勝したことになっている
実際は山崎の戦いは両軍ともにもっと数は少なかったか(光秀は西部戦線だけに大軍を割けないのでその可能性あるが)
秀吉軍は実際はもっと辛勝で 武勇を脚色するために損害を過少に大本営発表したのか
秀吉時代から江戸年間の間に色々 事実改変されたのか >>821
この見出しの感じだとまあだいたい聞いたことある話だろうなあ 953 日曜8時の名無しさん sage 2018/04/22(日) 02:01:31.13 ID:mlIx1kRr
>>948
なんで男言葉使ってんのおばさん >>823
中国大返しの謎は解る。
秀吉の援軍に光秀が向かう事になっていて道中の準備が成されていた。
恐らく光秀が準備していた兵糧馬舟その他の物資を利用して秀吉は戻ってきた。 >>826
秀吉の援軍には主君の信長・信忠親子が直々で向かうことになっており
(おそらく中国平定を秀吉の手柄にはさせたくないため)
その準備をしたのは秀吉自身じゃない?
光秀は信長・信忠が京でお茶会している間
信長・信忠の大軍を預かっていただけで総大将ではない >>827
信長、信忠の分もあったやろうけど
まずは光秀の分からやろうな
前線の秀吉が、何万人くるか不明な光秀や信長たちの兵站までやってたとは考えにくい そもそも信長、信忠の本軍が京都で準備されていたら光秀に討たれていない 秀吉が信長に頼んで援軍に来てもらう予定だったんだから
姫路から備中までの道中の準備は当然秀吉がしてるだろうし
粗相のないように、それはそれは気を付けて準備してたんじゃないか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています