【2018年大河ドラマ】 西郷どん part87
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◆前スレ
【2018年大河ドラマ】 西郷どん part86
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1535707244/
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>103
民の暮らしとかじゃなくね?
フランス革命なんてISみたいなもんだぞ
リヨンやヴァンデでは自由の名の許に農民虐殺
政治思想が肥大して原理主義化 >>98
こいつ毎年大河ドラマ板きて、主人公のなにがすごいかわからない、こうすればいいのにって書き込んでるやつだな。 >>105
そのISフランスと手を組んで負ける幕府
やはり腐っていた >>103
イギリスもチャールズ1世が処刑されてるし
ジェームズ2世亡命してるが >>106
あー、去年もいたな
ドラマ終了5分前まで名前が変わらない万千代をスレ内でひたすら直政、直政って呼んでたり
それでいて真田幸村の名前は嫌いなのか丸の冬の陣で幸村に改名してからも終わりまでの数話ずっと信繁、信繁って呼んでたり
未だに意味わからない 台風や地震がどこそこへ来てほしいといやつは人じゃないな
もう来なくていいよ 昨日はヒー様と秋元梢の挙式・披露宴
◆主な出席者 AI、IVAN、阿部力、綾野剛、瑛太・木村カエラ夫妻、
小栗旬、北島康介、北村有起哉、九重親方、中村獅童、永山絢斗、
蜷川実花、松田美由紀、松田龍平、松本潤(五十音順) >>98
何がすごいのかわからないのはお前がアンチだから >>109
キャストの字幕規準が拠り所かな?
吉次郎や信吾は西郷どんと呼ばない。 >>104
自分が不幸であることを自覚できないかわいそうな人。 >>115
発狂するほどの描写も特にないんだけどな
幕府軍の手下その@って感じで 西郷を偉人とするくくりは無血開城と陸軍大使の間くらいまで
それ以降は、偉人でもなんでもない
偉人であれば自らが開設した私学校生徒が暴動を起こした時点で
詫びていたはずであり、西南戦争を引き起こさないでも済んだ
そこで犠牲にならなくてよい薩摩藩士もいたってこと >>101
この30年くらいは旧幕府外交の研究がかなり進んでいるが、
清・朝鮮と比べたら比較にならないほど優秀で現実的な政権だとは言える
・アヘン戦争の戦闘詳報を清・オランダの両ルートから入手して
鎮江攻防戦を重視して天保令に転換し対外柔軟姿勢を取ったこと
・米国船来航の確率が高いことを把握して、熱心だったロシアとの交渉を長引かせ
最初の条約相手国(その後の条約の基準となる)にアメリカを選択したこと
(大槻盤渓が指摘している通り、当時はアメリカが補給路的に一番不利)
・税権で日本側有利、商権では圧倒的有利な条件を引き出したこと
・開鎖の是非にあたり日本初の意見公募を行い、通商問題では諸侯への諮問も何度も行ったこと
教科書でも20年前からそういう評価になってるので、お爺ちゃん以外は肯定的な評価で教えられてるはず フィルモア政権下での米国議会の分裂まで知ってたから、
下手な現代の政権より優秀とはいえる
なお、清も1861年だったかに皇帝への上奏文で洋化政策の必要を訴える際、
「日本においてはとっくに改革が始まり蒸気船の建造まで成功している」
として我が国も追いつかねばならないと言ってるから、この時点では日本リード
ところが日本が幕末の混乱期にある間、清は本格的な軍隊建設に着手し
10年経って1870年代になると清が逆転する >>118
まあ役人だからね
むしろ大久保の評価がイマイチなのがよくわからん >>104
信じられんな こういうこという奴
東日本大震災の時も見かけたけど維新側の人間はこんなのばっかりなのか? 維新側の山口市長は義援金送って会津市長にもうそろそろ仲良くしませんか?と救いの手を差しのべた ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通発見され、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントが「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」と手紙を出していたことが明らかになっています。
会津藩と庄内藩は北方警備も任されており、幕府から北海道の根室や留萌などに領地を拝領していました。
ヘンリー・スネルはプロイセンの書記官で、会津藩の軍事顧問を勤めていました。
スネルがプロイセンのビスマルクに、北海道の領地と引き換えに戊辰戦争への介入を頼んでいました。
ビスマルクは北海道の領有に魅力を感じましたが、ロシアを刺激してしまうことを憂慮して、この申し出を断っています。 『維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認』
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html
東大史料編纂(へんさん)所の箱石大准教授らが、会津、庄内両藩が戊辰戦争を前にプロイセン(ドイツ)との提携を模索したことを物語る文書をドイツの文書館で確認した。
日本にはまったく記録がないが、薩摩、長州を中心とした新政府軍に追いつめられた両藩が、外交に活路を求めていたことが明らかになった。
ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通あった。1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントは「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を出した。
両藩は当時、北方警備のため、幕府から根室や留萌などに領地を得ていた。手紙には「交渉は長引かせることができる。どの当事者も困窮した状況で、優位な条件を引き出せる」と記されていた。
船便なので届くのに2カ月ほどかかったようだ。「軍港の候補になるが、断るつもりだ」と宰相ビスマルクは10月8日に海相に通知。
この日は、新政府軍が会津若松の城下に突入した日に当たる。ほぼ1カ月後に会津、庄内は降伏。戦争がこれほど早く展開するとは、プロイセン側は予想していなかったのだろう。 顧みなかったビスマルク
ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立という視点から、両藩の提案を退けた。それに対して海相は「日本が引き続き混迷の一途をたどった場合は、他の強力な海軍国と同様に領地の確保を考慮すべきだ」と10月18日に返信していた。
箱石さんらは当時の政治状況や人間関係も調査、研究した。新政府の背後には英国がいて、新式の武器や弾薬は英国商人が供給していた。幕府が頼りにしてきた仏国は中立に転じていた。
「会津、庄内両藩は新政府軍の最大の標的であり、懸命に活路を見いだそうとしてブラントの意向と合致したのだろう」と箱石さんは見る。
ドイツの公文書と同時に東大には貴重な資料がもたらされた。スイス在住のユリコ・ビルト・カワラさん(86)が長年調査したシュネル兄弟の記録だ。会津藩の奉行で戊辰戦争で戦死したカワラさんの曽祖父と親交があった。
国学院大栃木短大の田中正弘教授によると、新潟港を拠点に東北諸藩に武器をあっせんしたシュネル兄弟は会津藩の軍事顧問をつとめたが、国籍不明で謎の人物とされてきた。兄が政治面を、弟がビジネス面を、分担したという。
カワラさんの調査で兄弟の出自が判明。プロイセンの生まれで、父の仕事の都合でオランダの植民地だったインドネシアで育ち、開港直後に横浜にやってきていた。
オランダ語ができたことが兄弟の強みだったようだ。プロイセンの外交文書は、ドイツ語の原文をオランダ語に訳し、2通そろえて幕府に出した。
そうした文書が東大史料編纂所に残っており、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調べて、オランダ語への翻訳に兄のサインを見つけた。
武器商人に転じるまで兄はプロイセン外交団の一員だったことが確認された。「会津、庄内両藩とプロイセンを結びつけたのはシュネル兄弟でしょう」と田中さん。
一連の研究は明治維新に新たな視点をもたらした。「英―仏の対抗図式に目を奪われるあまり、維新や戊辰戦争をより広い世界の中に位置づけることや、東北諸藩が武器、弾薬をどのように調達したのか分析する視点が不足していた」と東大の保谷徹教授は話している。(渡辺延志) ■1868年の動き
(●は確認された文書。日付は新暦)
1月27日 鳥羽・伏見の戦い
5月3日 江戸城開城
6月22日 奥羽越列藩同盟発足
7月4日 新政府軍、上野の彰義隊攻撃
7月31日 ●駐日代理公使がプロイセン宰相に書簡。「会津、庄内両藩から北海道の領地を売却したいとの相談を受けた」
10月8日 新政府軍、会津若松城の攻撃開始
●宰相が海相に通知。「軍港の候補になるが断るつもりだ」
10月18日 ●海相が宰相に返信。「日本の混迷が続けば領地獲得を考慮すべきだ」
11月6日 会津藩降伏
11月10日 庄内藩降伏 うわあすげえな
ちょっと非難しただけで怒濤の攻撃w
やっぱ維新側は好きになれんわ
昔からこういう気質の連中の集まりなんだな
わかってはいたが納得した キャストに辺見とか別府がいないけど
誰がやんのかな >>129
この歴史は全然知らなかった
勉強不足だな >>134
腐った幕府の真の黒幕は容保だったみたいな展開になれば評価に値する 県民だから思うのかもしれんが、鹿児島は西郷さんとか大久保さんとか過去の偉人にかなり頼ってるイメージが・・・いや今が稼ぎ時なのは分かるんだけど やっぱあれか
「我こそが真の徳川だ」
とか思ってたんじゃないの容保 簡単な話だよ。我欲のために海外の手先になって日本をめちゃくちゃにする
屑より、騎士道を重んじる外国のほうが信用に値すると思っただけだろう。 >>140
越前松平が、秀忠の兄の秀康の子供が初代藩主ってのに
それはないな。 >>119
海外で言えば
宰相が王家と調整せず話を進めてしまった形だろ
各地方の領主を纏められるわけがない
そんなのは堅実とはいえない 会津だの長州だの薩摩だの おらたち百姓には全然かんけーねーハナシずら >>141
まあ幕府は海外の手先のまま一度も抗えずに終わりましたからねえ >>101
ぶっちゃけ幕府はボロボロだったよ
あれだけ戦力差あって長州征討や鳥羽伏見で負けてるんだから
普通に考えれば幕府が一撃で長州を懲らしめ終わる戦だもん >>148
フランスの軍事顧問団まで雇って手取り足取りズブズブでしたからね >>149
旗本八万騎は何だったんだろうな?
260年間も無駄飯食わせてたってことか?
八王子のどん百姓だけが使い物になったって
まぁ、それが裏目に出て会津が悲惨なことにw >>150
しかもそこまでしといてロッシュから「もうフランスはこれ以上金を出しませんサヨウナラ」だもんねえ >>128
普墺戦争の頃だし
この後普仏戦争がメインだから
ロシア刺激したくないのは当然だなビスマルク こないだの放送ではパークスに「誰と交渉したらいいんだこの国は。帝か、将軍か?」
と聞かれて西郷は「薩摩でごわす。」と言い切ってたけど結局西郷って、
諸侯連合(ヒー様は徳川のことしか考えてないので徳川は除外)みたいなのじゃなくて、
薩摩が徳川に取って代わろうと思ってたの?
「革命を決めた」と言い出してきたけど
今まで西郷の思想の変遷があんまり描かれてないようなのでよくわからん 厨二病のオペレーション名みたいなもんだ
気にすんなと >>154
大久保と西郷は新国家の初期段階で各地の武家に対しリーダーシップを取るのは最も秀でた武力を示す薩摩しかないと考えていた
いかに合議の議会政治システムが優れていても、旧来の考えから脱却出来ない烏合の元幕閣や無能な公家連中に政治は出来ず、最悪の場合また天皇わっしょい血縁ゲームに逆戻りしかねないので、とりあえず天下は薩摩に預けてたもんせって感じ >>154
町田 明広@machi82175302
こうした中で、友好関係に水を差すような事案が発生した。
慶応元年(1865)9月、パークスら英仏蘭米の代表は大坂・兵庫の早期開市・開港、通商条約の勅許を要求するため、兵庫沖に艦隊を率いて来航した。将軍家茂も大坂に滞在しており、この機会を捉えたのだ。
#西郷どん
これを受け、薩摩藩の京都留守居・内田政風が朝廷に対し、兵庫開港の不可を述べ、諸侯を召集してその開否を衆議で決定すべきであり、もし外国艦隊が不法な行為に出た場合は、率先して在京藩兵が撃攘すると朝廷に申し出た。
#西郷どん
こうした薩摩藩の過激な言動は、朝廷や幕府の嫌疑はもちろんのこと、その思惑を遥かに超えて、イギリスなどの外国勢力にも疑惑の目を向けられることになり、これ以降の大きな難問に発展した。
#西郷どん
つまり、パークスからも嫌疑をかけられたため、薩摩藩としては大至急、その誤解を解いて薩英関係の修復を図らざるを得なくなった。
その切り札として、パークスの鹿児島への招待が計画された。パークスから望んだとする説もあるが、薩摩藩としては自らが望んだという立場は憚られた。
#西郷どん
慶応2年(1866)6月16日、パークスは鹿児島に入港し、21日に離れるまでの間、藩主忠義が旗艦にパークスを訪ねたり、久光・忠義父子がパークスらを磯邸で饗応したり、双方の軍事演習を見学するなどの友好的な儀礼を尽した。
猛烈なご馳走攻めだったが、今日はナマコに終始した感じ
#西郷どん
西郷がパークスと会談したことは極めて意義深いものであった。
西郷はイギリスの嫌疑について、藩士を勅使の伴として乗り込ませ回答期限の引き延ばしを図り、その間に諸侯を上京させて会議を開くことで、外交権を幕府から朝廷に移管させる目論見であったと説明し、パークスの理解を得た。
#西郷どん
さらに、西郷はパークスに対し、朝廷から指名された5ないし6藩の諸侯が外交を掌り、兵庫開港後の関税は朝廷に納め、西洋諸国と普遍的な条約を結べば、その時初めて信義で結ばれた関係を構築できるとつけ加えた。
#西郷どん
一方、パークスは将軍が大君と称することへ疑義を唱え、日本においては天皇と将軍が並び立っているが、外国では決してあり得ないことである。
いずれ、国王はどちらかに定め、唯一の存在にしなければならないと主張した。
#西郷どん
この会談を通じて、西郷は条約勅許時の嫌疑を晴らしたばかりでなく、十分に薩摩藩の抗幕政略をパークスに理解させ、賛同させることに成功した。
しかも、パークスが幕府から朝廷への外交権の移管に賛意を持っていることを確認でき、上首尾な会談となった。
#西郷どん
西郷・パークス会談によって、薩摩藩が今後の周旋活動への安堵感と自信を得たことは極めて重要であった。
個人的に興奮したのは、薩摩スチューデントの一員でロンドンから帰国したばかりの寺島宗則が登場したこと。
明治初期の外務卿です(^^)
#西郷どん >>108
清教徒革命や名誉革命は、民の暮らしというより、スコットランド発祥のステュアート朝が
カトリックごり押しで、反発した国教徒の議会が起こしたからな。 >>156
この最後にチョロっと書いてある、
> とりあえず天下は薩摩に預けてたもんせって感じ
ってのが一番怖いんだよな
外野で好き勝手言ってる時は楽だけど
実際権力手にしたら、やっぱり問題山積、きれいごとだけでは立ちいかないことも出てくる
なのに「それでもおれがやった方が絶対マシだから」と思い込み、
他の奴にはもう絶対権力は譲りたくないという悪循環に陥る >>157
ドラマでは、「薩摩人にとっての藩主(国父?)はイギリス人にとっての女王と同じだから、
よその軍艦になんか乗せられない」みたいなこと言ってたけど、実際には乗ったんだ。 >>153
そうではない
列強は当時日本に対しては交渉力を強化するためもあって共同歩調を取っている
(フランスが幕府寄りとされるのは間違い。本国の方針は英仏協調)
プロイセン本国はファブルブラント公使からの偽情報を得て
イギリスが共同歩調を破ったのではないかと疑ったが最終的には突出を恐れた
それだけの話
もともと奥羽列藩に入れ込んだファブルブラント公使の作り話なんだから仕方ない
>>126の書簡は「新政府はイギリスに琉球、奄美、長崎を売却した」なんて書いてある代物
当時の領事は、ロッシュ、ファブルブラント、ライス(アメリカ、函館脱走軍の承認に奔走)など、
力関係的に圧倒的に有利なイギリスに反発し、旧幕側に親近感を持ち個人的に接近した人が少なくない >>150
フランスの軍事顧問団が来日したのは長州征討が終わった後の慶応3年
長崎海軍伝習はオランダ、同時にイギリスの助力も得ているのに
なぜ「幕府=フランス」という印象を持つ人間が多いのか謎
なお薩長がイギリスというのはそれなりに正しいが、幕府がフランスというのは間違い
赴任したらイギリスの力関係が圧倒的に突出していたのに焦ったロッシュ公使が
個人的に幕府諸役人に接近しただけで、幕府自体は英仏蘭+普米あたりはわりと全方位外交
長州藩は下関戦争での敗北後に下関を自由港化させられたので、
開港場の増加を望むイギリスは長州寄りではあるが >>156
>大久保と西郷は新国家の初期段階で各地の武家に対しリーダーシップを取るのは
>最も秀でた武力を示す薩摩しかないと考えていた
そんなこと考えてないよ。それどこソースだ?
薩摩は慶応3年以降のいろんな運動で必ず同志的な藩を2,3加えているし
明治以降も廃藩置県で、当時もっとも熱心だった高知藩を排除したほかはそう閉鎖的でもない。 >>165
大変でしたね。
色々とやること多いと思いますが、
怪我しないでください。 龍神連合初代総長・高添沼田(葛飾区青戸6−23−21)の挑発
高添沼田「糞関東連合文句があったらいつでも俺様を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 糞関東連合の見立・石元・伊藤リオンの糞野郎どもは
龍神連合初代総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状) >>166ありがとう
さんざ悪態ついたけど(脚本に)
見れる喜びです 今年の夏の甲子園は下関国際がベスト8高知商業がベスト16
おい薩摩どうした >>163
慶喜が将軍になった慶応年間になると、
幕府はフランス・ロッシュ公使への傾斜を強めたでしょ
だから対日借款や軍事顧問団の派遣を行い、
鳥羽伏見の戦いで江戸へ逃げ帰った慶喜に対して、
フランス海軍の極東司令官とともに江戸城を訪ね、再起を促すまでになった 内政干渉は止めろ 日本人の事は日本人が解決する グダグダ五月蠅いぞ もう今から「民のため」とか言い出して
京が火の海になったのに心を痛めてる西郷どんでは、
とても後で戦を仕掛けるために自演で薩摩藩邸に火をつけたり
幕府を完膚なきまでに潰すため江戸を火の海にしたがるようになるとは思えないなw 元々は他の志士の使う理念だからねえ「民のため」「この国の」
西郷どんや薩摩隼人はもっとワンマンで野心家だよ。じゃないと頼りないし内面的な格好も悪い 足が速くって助かった、さすが糸どん、ってのに違和感。
いくら足が早いと言っても女性の着物で尻っ端折りした男並みに
走れるとは思わないんだけど。 >>174
戦争はやめさせようとしたのに幕府が仕掛けたり長州が勝手にやったり最悪でも西郷以外の薩摩藩士が勝手にやったりする
そして大政奉還も最初に考えたのは西郷
江戸城無血開城も先に考えたのは西郷
になる
間違いない 篤姫みたく、回想とナレーションで西南戦争、紀尾井坂の変を終わらせるのかな。 35回のサブタイが「戦の鬼」なんで、そこでどう描かれるか >>174
>>178
江戸の御用盗に関してだけは
近年西郷の関与が怪しくなって来てるけどな 歴史のIfで、この人生きてれば後の日本の歴史が大幅に違ってただろうの代表は
織田信長と島津斉彬だと思うな
西郷って、結局斉彬のパシリ以上でも以下でもない程度だし >>183
その代わり玉川上水に毒を流す計画があったと証言されてるけどな 四月に江戸城に単身乗り込んだ時も
自分に何かあったら江戸に三方から火をかけさせる準備を予めしてたらしい。 >>170
お前ばかだなあ。
ロッシュと関係を築いてたのは幕府の実務に携わる人間で、
慶喜は分野ごとにそれに乗っかっただけ。
ロッシュ一辺倒でも何でもないぞ。
むしろイギリスの反発を顧慮して英仏均等になるよう配慮してる。
幕府=フランスというより、ロッシュが個人的に接近しただけなのは定説。
その証拠にフランス本国は冷淡だったじゃん。 フランスの軍事顧問団で騒いでる人間がいるけど
幕閣はイギリス海軍の伝習指導団を要請してたって知らない奴が多いのかね
鳥羽伏見戦争のおかげで幻に終わったけど、慶応4年から教習開始予定だった
幕府=フランスというのは全くの誤解 明治維新の最大の功労者は慶喜と勝。この二人が幕府を率いていたことと
孝明天皇が絶妙のタイミングで御崩御されたことが明治維新が成立した
最大の要因。志士の様々な逸話なんて後付けにすぎない。頭の足りない
権威主義者は明治維新が大好き、その実態を考えようもしない。 >>191
最近は明治維新を倒幕運動としてはとらえないので、
「どっちが正しかったか」という発想じたいが間違いだろうな 小栗がフランスからの借款に突っ走って
フランス側の都合でぽしゃって
日本国の為に万々歳と言ってたのが勝だったな >>191
どちらにも正義はない
もちろん異国にも
ただ誰も何の手も講じなければ日本は消えてた
それは先の大戦による負けも同じで、負けイコール全否定でもない。零戦好きな人や戦艦大和好きな人が悪人とかいうことにもならない
学ランもセーラー服も元を辿れば兵士の制服だったりする 小栗上野は訪米経験も踏まえて
中央政府を執行している徳川将軍家を君主として確立すべきと言う立場で、
孝明帝以下朝廷との協調の為に幕府、実質的に江戸城老中による外交権を阻害して来る
一橋会津桑名や越前松平とは対立関係にあった、
特に孝明帝の半ば直臣と化して慎重論を口出しして来る会津松平の事は痛烈に批判してる
逆に、江戸城内では雄藩連合構想を否定して薩摩を排斥して参与会議を瓦解させた京都の一橋慶喜と
江戸城の小栗他徳川至上主義グループの挟み撃ちで
公議政体・雄藩連合を志向する勝安房(池田屋事件に連座)、大久保一翁、越前松平らの勢力は少数派に転落
だから江戸城で小栗が属するグループの老中と禁裏御守衛総督時代の一橋とは相当な政争があって
一橋の後ろ楯となった孝明帝朝廷に老中側が政治的フルボッコされて
しまいに将軍家茂が将軍の辞表を用意する程だったけど
慶喜が徳川宗家、将軍になってからは軍備再編の実務家として小栗上野を登用
大政奉還後は、家茂時代に主導権を巡って敵対していた会津桑名と小栗上野他が大政奉還の否定で利害一致して
京都と江戸から軍事力を誇示して最終的に鳥羽伏見を引き起こしてどちらも徳川宗家から実質追放
逆に、宗家である慶喜が大政奉還後は
京都朝廷や雄藩と交渉する為に公議政体派の越前松平、尾張に交渉を
任せ鳥羽伏見の敗戦後はその系統の勝海舟、大久保一翁に後始末を任せてる ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通発見され、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントが「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」と手紙を出していたことが明らかになっています。
会津藩と庄内藩は北方警備も任されており、幕府から北海道の根室や留萌などに領地を拝領していました。
ヘンリー・スネルはプロイセンの書記官で、会津藩の軍事顧問を勤めていました。
スネルがプロイセンのビスマルクに、北海道の領地と引き換えに戊辰戦争への介入を頼んでいました。
ビスマルクは北海道の領有に魅力を感じましたが、ロシアを刺激してしまうことを憂慮して、この申し出を断っています。
『維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認』
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html
東大史料編纂(へんさん)所の箱石大准教授らが、会津、庄内両藩が戊辰戦争を前にプロイセン(ドイツ)との提携を模索したことを物語る文書をドイツの文書館で確認した。
日本にはまったく記録がないが、薩摩、長州を中心とした新政府軍に追いつめられた両藩が、外交に活路を求めていたことが明らかになった。
ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通あった。1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントは「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を出した。
両藩は当時、北方警備のため、幕府から根室や留萌などに領地を得ていた。手紙には「交渉は長引かせることができる。どの当事者も困窮した状況で、優位な条件を引き出せる」と記されていた。
船便なので届くのに2カ月ほどかかったようだ。「軍港の候補になるが、断るつもりだ」と宰相ビスマルクは10月8日に海相に通知。
この日は、新政府軍が会津若松の城下に突入した日に当たる。ほぼ1カ月後に会津、庄内は降伏。戦争がこれほど早く展開するとは、プロイセン側は予想していなかったのだろう。 顧みなかったビスマルク
ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立という視点から、両藩の提案を退けた。それに対して海相は「日本が引き続き混迷の一途をたどった場合は、他の強力な海軍国と同様に領地の確保を考慮すべきだ」と10月18日に返信していた。
箱石さんらは当時の政治状況や人間関係も調査、研究した。新政府の背後には英国がいて、新式の武器や弾薬は英国商人が供給していた。幕府が頼りにしてきた仏国は中立に転じていた。
「会津、庄内両藩は新政府軍の最大の標的であり、懸命に活路を見いだそうとしてブラントの意向と合致したのだろう」と箱石さんは見る。
ドイツの公文書と同時に東大には貴重な資料がもたらされた。スイス在住のユリコ・ビルト・カワラさん(86)が長年調査したシュネル兄弟の記録だ。会津藩の奉行で戊辰戦争で戦死したカワラさんの曽祖父と親交があった。
国学院大栃木短大の田中正弘教授によると、新潟港を拠点に東北諸藩に武器をあっせんしたシュネル兄弟は会津藩の軍事顧問をつとめたが、国籍不明で謎の人物とされてきた。兄が政治面を、弟がビジネス面を、分担したという。
カワラさんの調査で兄弟の出自が判明。プロイセンの生まれで、父の仕事の都合でオランダの植民地だったインドネシアで育ち、開港直後に横浜にやってきていた。
オランダ語ができたことが兄弟の強みだったようだ。プロイセンの外交文書は、ドイツ語の原文をオランダ語に訳し、2通そろえて幕府に出した。
そうした文書が東大史料編纂所に残っており、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調べて、オランダ語への翻訳に兄のサインを見つけた。
武器商人に転じるまで兄はプロイセン外交団の一員だったことが確認された。「会津、庄内両藩とプロイセンを結びつけたのはシュネル兄弟でしょう」と田中さん。
一連の研究は明治維新に新たな視点をもたらした。「英―仏の対抗図式に目を奪われるあまり、維新や戊辰戦争をより広い世界の中に位置づけることや、東北諸藩が武器、弾薬をどのように調達したのか分析する視点が不足していた」と東大の保谷徹教授は話している。(渡辺延志) ■1868年の動き
(●は確認された文書。日付は新暦)
1月27日 鳥羽・伏見の戦い
5月3日 江戸城開城
6月22日 奥羽越列藩同盟発足
7月4日 新政府軍、上野の彰義隊攻撃
7月31日 ●駐日代理公使がプロイセン宰相に書簡。「会津、庄内両藩から北海道の領地を売却したいとの相談を受けた」
10月8日 新政府軍、会津若松城の攻撃開始
●宰相が海相に通知。「軍港の候補になるが断るつもりだ」
10月18日 ●海相が宰相に返信。「日本の混迷が続けば領地獲得を考慮すべきだ」
11月6日 会津藩降伏
11月10日 庄内藩降伏 話の出所が
武器商人の平松武兵衛と言うのも
どこまで確実な話なのかきな臭くてな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています