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龍馬と亀山社中、関係薄い? 船中八策は虚構の可能性
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL2P4SDXL2PULZU00K.html

幕末の志士・坂本龍馬が創設した、日本初の商社兼私設海軍といえば「海援隊」。前身の「亀山社中」は、長州藩と薩摩藩を結びつける役割を果たしたといわれる。
だが、最近の研究で、龍馬との関わりは薄かった可能性が高くなっている。

私たちの知る「亀山社中」と、後身とされる「海援隊」の設立経緯は以下のようだ。

神戸にあった幕府の海軍操練所が閉鎖されると、土佐浪士だった坂本龍馬は慶応元(1865)年夏、長崎に日本初の商社兼私設海軍「亀山社中」を設立する。

同年7〜10月には、長州藩のために、武器や軍艦(ユニオン号)などの兵器を薩摩藩名義で購入。当時、険悪だった両藩の関係の修復を試みた。

慶応2年1月には、社中の一員だった近藤長次郎が盟約に反した罪で切腹するものの、同年6月の第2次幕長戦争では、ユニオン号で海戦に参加。
その志は慶応3年に設立された商社兼私設海軍「海援隊」に受け継がれたとされる。

私設海軍の見方「事実誤認」
だが、専門家からは、こうした通説は再検討すべきとの指摘が出ている。

明治維新史学会理事を務める、神田外語大学准教授の町田明広さん(幕末維新史)によると、亀山社中の「社中」は「グループ」という程度の意味。
「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団というのが実態。私設海軍や商社などとするのは事実誤認」

坂本龍馬との関係も希薄とみる。

『社中のメンバーは、海軍操練所の解散後、薩摩藩の大坂屋敷に潜伏していた近藤長次郎、高松太郎という面々で、そこに龍馬の名前はない。発足時にも龍馬はそこにいなかった』

長州藩のための武器と軍艦の買いつけについても、『資料を見る限り、その購入のために長崎の薩摩藩屋敷に派遣されたのは、長州の井上馨と伊藤博文で、薩摩藩重職の小松帯刀に名義を借りを懇願し、それが叶って買い入れができた。龍馬も西郷も出て来ない』

『西郷も薩摩藩の下役で、名義貸しを判断できる立場になかった』

西郷も巨大化された。京都藩邸にあって、いわば代表取締役として薩摩の外向、行政を一手に担っていたのは小松帯刀である。
金も人も動かせる立場にあったのは小松だ。

亀山社中のリーダーは近藤長次郎だと町田氏は見る。
『近藤たちは、薩摩藩に受け入れられ、対外的には薩摩藩士として活動していた。
龍馬を薩摩藩士と書いた資料もある。龍馬は亀山社中とは関係ない対外活動に、近藤長次郎は実務にと役割分担していた』
ユニオン号の購入も小松帯刀の命令を受けた近藤が担当したと見る。

龍馬の船中八策も、原本も写本もなくその内容も書物によってばらばらで、明治以降に作られた虚構である可能性が強いとする。

これについては、NHKの英雄たちの選択で磯田教授も一次資料がなく信憑性がないと指摘したところだ。