敬親は禁門の変後に自らの意思で山口を捨て萩を選んでいる
元治内戦にあたっても一度は追討軍を差し向けたため
祖廟に自らの不明を謝罪する事態に陥っている

この時期、家中のいろんな派閥抗争の調停に悩まなかった諸侯はいない
王政復古を必ずしも望んでいなかった島津久光も慶応3年に上洛した際、
明確な意思表明をしていないが
これも強硬派、穏健派双方の藩士たちのバランスに苦慮したため