【2018年大河ドラマ】 西郷どん part100
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これさあ・・・
自分は脳内補完できるからいいけどさあ・・・
何も知らん人・・・何も分からんかったんじゃないの今日の回
ひどくねこれ >>460
そもそも戊辰戦争も討幕も起きてないと思う
諸侯会議になってただろうし >>458
薩長土肥は藩を踏み台にして下級武士が大出世みたいなオチだからね
藩主から見れば詐欺師の集団でしかない まあ政府は腐敗はしていたであろうが、スピードを増して時代を変えていったのは間違いないであろう。 小松の早死 病死を描かれていないのはショックだわ…
西郷 大久保 木戸らも小松の死を嘆いているのに
江藤は もっと優秀な人なんだけど やっぱり鳥羽伏見からの政治はもっと丁寧に見たかったなー
西郷さん以外の人たちもちゃんと描いたら逆に西郷も浮き彫りになるだろうに 結局大久保本人がやりたかった近代化なんての無いからな
内務省作って絶大な権限を持つに至っただけで 翔ぶが如くより大分遅れて始まった明治編だが
これならばもっと早く明治編に入れば良かったのにな。 古今東西どんなジャンルのドラマも人間の機微を上手に描くのが面白いドラマよ。 ちょっと・・・なんかみんな急に新登場人物もまだなじみがないままに
ケンカ口論の内容も一方通行同士で交わることもなく
よっぽどこのドラマやこの時代が好きな人でないと、見てて難しかったんじゃないかな >>463
斉彬は井伊を倒すため挙兵しようとしてから
結局改革路線で幕府と対立して倒幕なって太郎けど 飛ぶが如くと比べるのは酷だけど
西田と鹿賀丈史のやり取りの方が見どころあったよなぁ
まぁ原作が司馬遼太郎と林真理子じゃその時点で勝負ついてるってのもあるけどさ
役者の問題より原作や脚本の問題だと思う >>480
征韓論激論の時の
まわりのポカンが彼らの存在の大きさ
示してて面白かった 薩摩も長州も保守的で改革には消極的
非薩長系の方が積極的でこれに主導権奪われ
そうになったんで仕方なくだよ これどうやって征韓論に話が行くんだ?、全く見当がつかん。 西郷が大物らしい雰囲気になったのはいいが
周りがみんな馬鹿っぽいのが残念だ >>467
このあたりは翔ぶが如くとほぼ同じ展開
あっちも小松は扱いが小さかった
明治編の回数が少ない分は八郎太千絵のパートを削ったと考えれば・・・ 何でもかんでも民のためと屁理屈をつける脚本がうるさい
民のためのポリスなど警視総監から巡査までひとりもいない 西洋に追いつくためには科学技術だけでいいはずなのに
衣食住から思想、政体までそっくりそのままマネしなきゃいけないという
発想がわからない。 全然話は変わるが、大久保は給料を国の財政に補填していてたらしいが、国の財政に比べると
個人の収入なんてどんだけ多かろうがとるに足らんだろ。その点がよくわからん。 良い出来だったね
西郷と大久保の友情、良かったよ。 >>473
のちの私学校幹部もそうだけど、やっぱ土肥の連中もモブ高官みたいなまとめかたされてるなあ 鎌倉より続く薩摩島津家と元就以降の名門長州毛利が主体だったのに、どっちつかずで土壇場ですり寄った土佐がデカイ顔してるのがなあ
藩祖からして武によっての手柄ではなくただ城を明け渡した口先三寸で土佐をもらい、武において遥かに格上の長曽我部家への卑屈さから長曽我部家臣をいびり抜いた山内一豊だからしょうがないか
藩祖以来伝統の三大蝙蝠
弘前藩津軽家、土佐藩山内家、津藩藤堂家 >>488
日本が鎖国してる間に西洋は戦争ばっかして強い政体作り上げたから
近代的な政体や軍事組織を作らんと幕府や清朝の様に弱くなる 版籍奉還は木戸が言い出したことじゃなかったのか?
それに大久保が従ったと思ったが、何で江藤や後藤は
反対してんの?
新政府内で版籍奉還が揉めてるようだが、理由が全く分からない。 >>476
ただ愛人の内田を強調してる分、正妻のミムラを扱う尺が足りなそう >>492
どっちつかずというより土佐は公議政体論の立場だから
徳川が正式に朝敵になったので参戦した >>493
地理的に
近かったオスマントルコなんて
病人扱い >>488
明治時代はそういう和魂洋才の主張と、思想や制度からいじらんと根本的な改革ができんって主張のせめぎあいだから。
まあ、何より欧米人が自分らの文化が最高だと思ってるので、
国力よりも見かけを欧化政策しないと列強との外交に相手にされないと思ってた面が強い。 >>488
どこを真似していいのか分からないから、とりあえず目につくところを片っ端から真似てみたんじゃないの
「機神兵団」というSF小説では、エイリアンの侵略アンドロイドに対抗するため、エイリアンの技術を利用するのに
どう使えばいいのか分からなくて、そのまま侵略アンドロイドをコピーしようとした
しかも、精密さに技術が追いつかないので、巨大ロボになってた 「マッサン、これからは自分のために頑張って」
と思って見てる、シャーロット・ケイト・フォックスだったり…。 >>494
最後のあれ、おむすびだったのか
薩摩芋かと思った >>488
当時の日本でもっともコストパフォーマンスよく科学技術を取り入れて
実用化できるのは衣食住に関連する産業 >>479
登場から最後まで雑で俗なのにやたら長かったな
とはいえ大河らしさあった今週物足りなく感じたわ
毒されてんのかな >>495
予算がないから反対みたいなこと言ってたね >>488
大学を作るためだけにも
どれだけの下準備が必要なのか分からんのか・・・ >>477
言いすぎ
斉彬から近衛家に宛てた手紙がある
今以上に幕府から朝廷への圧力が強まるようなら出兵を要請くださいといったようなニュアンスなので 民主主義だって米英が戦争で不敗だから世界に広まった
民主主義だらけになった 何で未だに「吉之助さ〜」「一蔵どん」なんだよ。
実際もそうだったのか? 大久保と木戸が違えるひと芝居を打って
途中で西郷が入ってきて収める
そういう茶番劇かと思いきやマジだったんだな >>495
>>495
版籍奉還は明治2年1月に薩長土3藩、具体的には大久保・広沢・板垣の間で建白が合意されている
その後、政府は府藩県三治制を敷き有力藩の連合によって中央集権的改革を志向した
ところが明治4年になると高知藩以下の有志藩が廃藩を訴えて議院開設を主張、
これに対抗した中央政府改革が意見対立で暗礁に乗り上げ
危機打開の方策として急きょ廃藩置県が浮上した というのが今回までの流れ >>512
アメリカの軍事研究家の中には
「民主主義国同士は戦争しないから世界を民主化すれば平和になる」ってマジに言ってる人がいるからなw >>493
憲法とか議会とか政体を輸入した弊害が
今の政治につながってるかと思うとなぁ
日本の国会なんて茶番を通り越してる まあ共産主義でも今は平和な田舎は結構ありますけどね
キューバとかベトナムとか >>516
民主主義国同士でも戦争するけど、
独裁国家の方が侵略的だとは思う >>517
藩閥政府は別に憲法や議会制を(積極的に)導入したかったわけじゃないけどね
「天子様の詔」以外に正当性を持たない不安定さに西洋流の政治知識を仕入れた野党が噛み付いたから
妥協案で明治流の憲法や議会制ができただけで 斉彬存命だと実質島津幕府みたいになってそう
大名行列来たら土下座させられそうでイヤ 町田 明広@machi82175302
まずは戊辰戦争中・後の西郷の動向を振り返っておこう。
明治2年(1869)2月23日、藩主忠義が自ら隠棲していた西郷を日当山に訪れて、薩摩藩の参政就任を懇願した。
それまでは、久光の召命にも応じなかったが、藩主直々の頼みを断る訳にもいかず、西郷は参政に就任した。
#西郷どん
明治政府は前年10月に、府藩県の行政組織を統一するため藩治職制を制定し、職制を執政・参政・公議人に統一するよう求めていた。
薩摩藩がこれを採用したのは、西郷が参政就任を依頼される直前で、執政を欠員としたため、西郷が実質的な藩の最高幹部となった。
#西郷どん
島津忠義が西郷に参政就任を求めたのは、川村純義や伊集院兼寛ら戊辰戦争で活躍した凱旋将兵が一斉に帰藩し、出兵に消極的であった門閥の打破や人材登用を猛烈に唱え、抑えが利かなかったことによる。
西郷担ぎ出しによる鎮静化を期待したのだ。
#西郷どん
2月17日には、川村らは出兵に反対した久光の次男、島津久治を忠義の面前で詰問し、家老職の辞職にまで追い込んだ。
久光も門閥廃止は必要としながらも、事を慎重に運ぶべきであると考えていたが、藩主父子であってもこの形勢はいかんともし難く、久光は西郷の出馬を求め鎮静を依頼した。
#西郷どん
西郷は凱旋将兵を積極的になだめる姿勢を見せず、久光は川村らが改革・批判の手を緩めないことに怒りを増幅させ、西郷が彼らを扇動しているのではないかと疑い、西郷を激しく憎むことになった。
一方で、西郷は参政として、禄制改革・常備兵強化など諸制度の改革に取り組んで藩政を指揮した。
#西郷どん >>517
今の政治?
一度不十分に輸入したせいで国名まで変えられるほどに叩き潰された歴史を忘れたのか 伊藤博文どっかで見たことあると思ったら
ノーコンキッドできもい方の主人公やってた人か >>517
それでも独裁国家よりは良いだろう
独裁国家ってソ連の様に表に現れないだけで内部は相当ひどいと思うよ >>523
町田 明広@machi82175302
最初に藩庁を知政所、島津家の家政所を内政局とし、西郷と一心同体の桂久武を知政所の執政心得とし、伊地知正治ら五人を参政とした。
また、軍務・会計・糾明・監察といった各局を設置し、その総裁は凱旋将兵から抜擢した。明治2年6月に行われる、版籍奉還を先取りする新しい組織を編成した。
#西郷どん
藩内の私領制度を廃止し、島津一門・門閥の私領地はすべて藩庁が取り上げ、新任の地頭を置いて統轄させた。
地頭には、樺山資紀・高崎正風・高崎五六などが人物本位で任命された。
地頭は、管轄内の郷士を編成して民生・軍政を指揮しており、廃藩置県の先取りである。
#西郷どん
次いで、藩士の家格なども全廃して一律に士族とし、新たに禄制等級を設け、門閥の禄高は従来の8分の1に大削減し、上層士族の高は200石まで削り、下級士族の高は逆に200石に近づけた。
これを踏まえ、士族を常備兵に編成し直し、総勢17000人余りの国内最大の陸軍を西郷は作り上げた。
#西郷どん
さらに、装備は最新の施条錠を採用し、集成館や火薬製造局で銃や火薬を製造、職工は千人を超えていた。
また、イギリス人医師で外交官であるウィリアム・ウィリスを鹿児島医学校兼病院の校長として招いた。
こうして西郷は、薩摩藩を軍事大国に仕立て上げたのだ。
#西郷どん
西郷は、決して封建制を擁護していたわけではなく、廃藩置県を先取りした禄制改革や地頭設置などを試みた。
そして、西洋文明を取り入れる柔軟性を持っており、単純な攘夷論者でもなかった。一方で、士族を再編・優遇し、国家の有事に備えた。
#西郷どん すげえよ
大隈重信、板垣退助、山形有朋あたりがモブ扱い
つーか敵役だよw 明治編から急に良くなったな
鈴木も西郷に見えるようになった 信じられるか
ここから佐賀の乱はやるっていうんだぜ
江藤どこにいたんだよ! >>502
久光は西洋嫌いで有名だけど
議会制民主主義とかの限界まで分かったうえで
嫌ってそうな気がする。今の中国の経済発展のスピードの速さに
日経新聞までがあれ民主主義やばくねって論調だし。 >>528
ただ、独裁国家なのに、税金や医療費教育費タダにして、
国民が豊かで不満ないとか言ってた国があったけどな
どっかの産油国だったと思うけど 来週、汚職って事は
山縣は出て来るのか
あの件で山縣に恩売ったのが西郷だったよな >>529
町田 明広@machi82175302
当時、新政府には兵力が皆無であり、諸藩は軍事改革を進めていた。
西郷はこうした状況を憂い、次の内乱を討伐するために薩摩藩をモデルにしたのだが、新政府からはルールを無視した軍国化に疑念をかけられた。
#西郷どん
もちろん、必要があれば、武力で政府を一新することも、また、西郷の念頭にはあったはずだが、いずれにしろ、薩摩藩の軍国化によって、西郷は全国の不満分子の期待を一身に背負うことになった。
#西郷どん
こうした中で、明治2年5月、西郷は再び藩兵を率いて箱館戦争に向かった。
新政府から何ら要望も出されていない中での、西郷の独断であった。
しかし、到着前に戦闘が終結し、戦うことなく箱館から帰国の途に就いた。連れてきた軍隊を政府が欲したが、西郷は無視して帰国してしまう。
#西郷どん
明治2年6月2日、政府は戊辰戦争終結に伴い論功行賞が行ったが、忠義は従三位・参議に、久光は従二位・権大納言に任じられ、賞典禄10万石が与えられた。
西郷も賞典禄2000石を与えられ、9月には正三位に叙せられたが、忠義より高位なることをはばかり、官位辞退を申し出た。
#西郷どん
なお、明治2年1月20日の時点で、忠義ら薩長土肥の4藩主は連名で版(土地)と籍(人民)を朝廷に返上すること、つまり、版籍奉還を上奏していた。
これにならって、他藩主も追随していたが、戊辰戦争の終結を機会として、6月17日、いよいよ実現の運びとなった。
#西郷どん どうしても、後藤象二郎→青木崇高に思えるし、伊藤博文は劇団ひとりに演じて欲しくなる。
以前の大河ドラマに毒され過ぎだろうけど。 >>534
つうか、そもそも明治初期に民主主義を主張してた有力者はまずいない
議会政治を主張するようになる層の主張も民主主義のそれではない >>537
町田 明広@machi82175302
藩主の封建的な諸特権は、ほぼ従来通りであったものの、身分上は知藩事として天皇の任命する官吏となった。
薩摩藩は鹿児島藩(以降の記載も薩摩藩と旧藩名で統一)とされ、忠義が藩知事に任命された。
#西郷どん
版籍奉還といった改革を進めながらも、中央政府は安定感を欠いていた。
維新の原動力となった薩長両藩であったが、薩摩藩は久光が政府批判を止めず、しかも西郷が軍事国家を作り上げて、政府一新のために率兵上京するのではないかという観測も流れた。
#西郷どん
長州藩では奇兵隊の反乱がおこり、大村益次郎・広沢真臣は暗殺され、前原一誠は萩に引きこもって、木戸孝允への攻撃を続けていた。
百姓一揆は頻発し、不平士族の動向も油断ならなかった。
そこで、政府は何とか西郷を担ぎ出し、この難局にあたろうとした。
このあたりが、先週描かれた時期。
#西郷どん
明治3年(1870)11月、大久保利通は勅使岩倉具視とともに鹿児島に向かい、西郷に上京の勅命を齎した。
久光にも上京を求めたが、体調不良を口実に拒否された。
しかし、西郷の上京は認めたため、翌4年1月、西郷は鹿児島を出発、山口・土佐に立ち寄り木戸・板垣らを誘い、一緒に上京を果たした。
#西郷どん
西郷は、維新を成し遂げた薩摩・長州・土佐の3藩が中心となって、もう一度、一致協力して改革にあたることを画策したのだ。
西郷は、新政府に直属の軍事力がなければ、改革など何事もできないと判断し、御親兵を設置することを提言して同意を得た。
#西郷どん 久光が議会制民主主義とかの限界まで分かってるわけねえだろw
いくらインテリっつっても日本の端っこの殿様だぞw 下町ロケットの配役豪華だな
西郷どんとそん色ない
トメGは向こうの方が間違いなく上だな >>540
坂本龍馬も下院は普通選挙を唱えてるし
珍しくないよ
明治になってから大久保の有司専制で後退しただけで
木戸だって憲法制定や三権分立唱えてるからね 島津は立場がどう変わろうと中央に介入を続けた有能氏族 >>543
町田 明広@machi82175302
西郷はいったん鹿児島に戻り、明治4年(1871)4月に藩知事となった忠義とともに兵3000余りを率いて上京した。
長州・土佐両藩の兵と合わせて約8000の御親兵(翌年から近衛兵と改称)が誕生した。
6月には西郷と木戸が参議に就任し、いよいよ大改革の時が迫った。
#西郷どん
新政府は御親兵の武力を背景に、明治4年(1871)7月14日に廃藩置県を断行した。
廃藩置県は木戸・山県有朋ら長州藩出身者の主導で推進されたが、西郷が反対するのではと危惧していた。
しかし、西郷は反対するどころか大いに賛意を表した。
#西郷どん
西郷はもしも反対する藩があれば、御親兵を率いて征伐するので心配無用であると言い放って不安がる周囲を落ち着かせ、断行への道筋を開いた。
むしろ、大久保の方が躊躇してなかなか決断ができず政府がこのまま瓦解するよりも、一か八かに打って出る方がましであると観念しようやく同意した。
#西郷どん
西郷は、廃藩への動きはもはや人力の及ばざるものであり、これを拒めば維新の勲功はすべて失われると覚悟していた。
また、長州藩との協調を重視し、閣内で孤立することを恐れた側面もあったかも知れない。
#西郷どん
いずれにしろ、西郷の勇断がなければ、廃藩置県の成功は見込めなかった。
ところで、廃藩置県は封建制に終止符を打ち、我が国を近世から近代に導いた画期的な大革命である。
いわゆる150年前の1868年の明治維新に比して、廃藩置県こそが真の革命であった。
#西郷どん
その革命を成し遂げた西郷は、事実上の士族の棟梁でありながら、その基盤である藩を葬り去った。
西郷の悲劇は、ここに萌芽したのだ。なお、ドラマでは廃藩置県を大久保利通が推進主体と描かれているが、大久保はむしろ慎重論者であった。
#西郷どん >>542、548
板垣も在野の意見を広く取り入れよってだけで、ただの立憲議会主義だよ。天皇がいなかったら共和制に近い
民主主義の原則「被治者である民衆の自由意志で政体を決める」ってのとは程遠い >>550
町田 明広@machi82175302
西郷は一方で、汚職や強権によって豪奢し腐敗する政府員を更迭して、清廉強力な人材を起用することを目指したが、こちらは思うようにいかなかった。
西郷は、参議として絶大な権限を保持しながら、政策を構想する能力にはやや欠けていた。
#西郷どん
そして、西郷はそれを補うブレーンに恵まれなかった。西郷の周りには有能な軍人はいたが、優秀な政治家はいなかったのだ。
どんなに大隈重信や井上馨を毛嫌いしたところで、その代わりの駒を持ち合わせていない西郷は、彼らを罷免することなどできなかった。
#西郷どん
廃藩置県によって、薩摩藩は鹿児島県となり、藩知事忠義は解任されて大山綱良が権大参事(後に県令)に就任した。
廃藩を知った久光は激怒し、花火を打ち上げて鬱憤を晴らしたという。
久光の西郷に対する恨みは、骨髄に達してしまった。
#西郷どん
久光はそもそも、廃藩置県など夢想だにせず、あくまでも緩やかな結合の連邦国家の中で、各藩が大きな権限を持つことを志向していた。
しかし、その方向で動いていたはずの家臣に裏切られ、中央集権国家の樹立の名のもとに、藩祖代々の土地・人民を失ってしまったのだ。
#西郷どん
ここから、久光の反撃が始まる。久光は、自らの県令就任への運動を始めたのだ。
これには西郷も、驚嘆せざるを得なかった。三条実美の協力を得て、なんとかその運動を断念させたものの、久光の意図はこの運動を通じて、西郷ら旧薩摩藩出身者の失脚を謀ったことにあった。
#西郷どん >>553
町田 明広@machi82175302
こうした西郷の苦衷を察した明治天皇は、久光を慰撫するために西国巡幸を仰せ出され、翌5年(1872)に実現した。
西郷は天皇に供奉して巡幸全体を取り仕切り、6月22日から7月2日まで鹿児島に滞在したが、西郷の目論見は外れて、久光を慰撫するどころか、かえって逆鱗に触れてしまった。
#西郷どん
久光の失望と怒りは、まず天皇の在り方に及んだ。西郷は吉井友実・村田新八らを宮内大丞として送り込み天皇の周辺を士族で固め、女官たちを罷免するなど宮中改革に積極的に取り組んでいた。
国民との接触が密であり、積極的かつ能動的なヨーロッパの皇帝のような天皇に育てることを模索した。
#西郷どん
君主としては白紙状態の幼い天皇を、新国家日本のシンボルとして誇れる存在にまで育成することに意を用いた。旧態依然とした天皇の在り方しか頭にない久光は、天皇が洋服を着用し、異人館のような玉座におられたことに激怒した。
#西郷どん
久光は、宮中改革に代表される開化政策を批判し、旧制に復することを求めた建白書を提出した。
また、行在所の鹿児島城本丸から久光が居住する二の丸まで、わずか数百メートルしか離れていないにもかかわらず、西郷は滞在中に久光のもとへ挨拶に行かなかった。
#西郷どん
10日間の滞在中、西郷さえその気になればいつでも行けたはずである。
久光の意向を無視し、様々な改革を推進して久光を憤慨させていたため、また、久光実子の久治の自殺後であり、気が進まず遠慮したこともあろう。
#西郷どん >>547
下町ロケットは高度成長期の熱気を懐しむ話
勧善懲悪の時代劇 >>538
イラクだよ
貧民の蜂起で体制が揺らぐから貧民にはしっかりフォローしていた
フセイン亡き後はしっかり貧富が出来た >>548
龍馬どころか、幕臣の大久保一翁までが議会制の導入を訴えて
書生論はやめろとか怒られたらしい。幕末から欧州の政体は
よく知られている。 吉之助と一蔵が笑い合ったり一蔵が吉之助に悩み相談したりとお互い「親友」なんだと感じる場面だった。
OPのすれ違いにもある通り今後のことが分かってるだけあって泣けてくる >>554
町田 明広@machi82175302
7月2日、天皇は鹿児島を後にしたが、久光の怒りは収まらず、その後も繰り返し西郷・大久保の罷免を、また、西郷には特に帰国・釈明を求めたのだ。
西郷の苦悩は深く、その対応に苦慮し続けることになる。
話が少し進み過ぎた。
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