【2018年大河ドラマ】 西郷どん part107
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大西郷がそれまでの士族の反乱を見てない前提かよw
状況を考えろ >>12
暴走した連中の責任の一端を負うことと、政府に施政上の問題を訴えることは何も矛盾しないけど? >>9
覚馬の軟禁は史実では畳の部屋でちゃんとした食事と晩酌までつくVIP待遇だったんだよね
それをドラマでリアルにやればネタになったのにねw
八重関係は史実通りにエピソードひろうとフィクションに近付く希少な存在だわ 西郷どん、立った理由がボウズヲシサツセヨって命令があったから。
これ、今までの西郷の描かれ方なら
おいの命で事が治まるならば、刺したければ刺せばよかあ。
って言わせる場面だろ。
なんか一定しない心理描写だなあ。 批判覚悟だけど
とにかく脚本がちぐはぐ
ここ力入れて書けよって所さらっと行って、奥さんの葛藤やら妾との対決とか必要なの?ってシーンばかり入れてくる
女の脚本家だから、どうしても女目線で歴史見てるから、正直つまらない
なんか、もうちょっと掘り下げるべき場面あったんじゃないのか?って言いたくなる
ほんとスッキリしないドラマ あんな大リストラされたら誰だって反乱するよ
食っていけないんだもん 要は、西郷がやりたかったことは不平士族の不満・施政に対する不満を政府や世間に知らしめるための集団示威行為だったということ
この時点での西郷に政府軍と戦うつもりなんて毛頭ないし、そのまま見過ごしてもらえると思っていた節がある
暴徒化した者についての自らの責任とは別に >>22
収まるもなにも西郷が死ねば反乱は起こせない。 長州「軍勢を以て進発し、帝に主君の冤罪を訴える」
→長州敗北、京都政局は一橋慶喜ら一会桑の主導下に
徳川慶喜「朝議を牛耳り江戸で狼藉を働く薩摩の罪を帝に訴える為に都に出兵する、
と家臣が言うので好きにしろと承認した」
→薩摩他と軍事衝突、錦の御旗により朝敵に、半ば手中にしていた徳川慶喜の朝廷政治復帰は完全に破綻し
恐慌に徳川排斥を主張した薩摩・西郷隆盛大久保利通一派が新政府の主導権を掌握
西郷隆盛「政府に尋問の筋是有」
→結論として、武装行列を熊本で阻止されgdgdな激戦の末に
西郷隆盛諸共、「不平士族」勢力自体が軍事的、政治的に実質終焉
????「奸臣を除き陛下親政による改めての維新を」
→賊の言う事等聞く必要が何処にある 場を引っ張らなきゃいけないのに、桐野役の発声が酷いね。
せっかく役職があったのにやめて田舎でニートの脳筋薩摩ども、
さっさと帰農するなり他の仕事探せよwあんたらが潰した徳川幕臣
達も、そうやって帰農したり娘を売ったり苦労して地位を捨てたんだぞ。
このダイジェスト雰囲気西南戦争で警視庁抜刀隊が出てくるのか心配だ。 >>26
それは君の意見ではないの?
そもそも桐野だけでもないはずだが >>26
あそこに集結してたの戊辰経験の実戦ガチ勢で、しかも「武士」だぞ
武士にとって弔い合戦は絶対
まだまだ「忠臣蔵」の価値観に生きてた時代だからな
西郷が暗殺されて蜂起しなければ
ハッキリいって私学校党は人格的にも社会的にも本気で死ぬし
その上でもうちょっとだけ賢く熊本や主要都市の攻略に本気で動けば
不平士族の生き残りも最高の大義名分で馳せ参じる
大久保がそこまではっきり手を汚せば、最悪、国父やその関連まで敵に回す事にすらなりかねない リーダーなんていうのは立つと決めた者中のから自ずと選ばれるはずだ
有馬新七がそうだったように この時期の武士がもらってた禄って何?
米? 紙幣? >>27
余計な事しなければ普通に県の金で農業・調練で食えてた訳ではあるからな
ちなみに、当時の実質独立国Kagoshimaの庶民生活を見るなら
税率は全国比でも大きく重税で、
しかも西南戦争にも戦禍、経済的に普通に巻き込まれてる そもそも桐野や篠原では県令の大山が動かんし。
どうやって蜂起せよと。 >>34
蜂起するものは蜂起するものだけで蜂起する
抑えておさまるものとそうではないものがいるのは寺田屋で証明されている >>16
まあ、それが史実だし
大河ドラマの主人公として美化してるけど実際の所、江戸で暴動起こしたり、坂本龍馬暗殺疑惑や、大村益次郎暗殺疑惑など
裏で悪さしてるから
おいの命で事が治まるならばと1人で上京するわけもなく
むしろ1人で上京したら暗殺されるんじゃないかと疑心暗鬼になっている
西郷自身が裏で暗殺を指示していたからこそ出てくる心情だな
自分が暗殺するのはいいけど他人に暗殺されるのは嫌なんだよ 熊本の協同隊、宮崎八郎は今日の話で加わってるな。田原坂の慰霊塔では、
名前がちょっと黄色なってた、有名所はみんな触るから変色してた。
西南戦争は国内最後の内戦、敵味方のドラマ性、ほんと面白いのに
この有様、もう翔ぶが如くをBS再放送してくれ。
延岡で別れるわんこたち・・。 >>24
反乱なら、シンボルになる人間がいなけりゃ
ただの散発な暴動になるよ。
ただ、言いたいのはそういう事じゃなくて
あの命令書で立つことを決心したって演出は今までの西郷とはブレ過ぎだろって。
見せ場だろ、この場面。
史実では完全に挙兵してんだから
もっとやむにやまれず
おはんらあオイと一緒に死にに行くかあ
ぐらいの演出でよかっただろと思う。
つうか、問いただしに行くってなんだよと思うわ。
言いたくないけどクソマンコって言いたくなる。 私学校設立には大久保も資金援助してるんだけどな。
西郷の2千石の次に1800石を出してる。 西郷さんは、鹿児島からの示威行動で徳川幕府を追い込んだ
過去の成功体験で同じ事しようとしたんだろうなと思う。
それこそ自らが変えた時勢で同じ手は通じなかったワケだが。
てかもうドラマは脚本酷すぎて語る気になれん。 >>38
大河ドラマだから美化しておかしくなってるから文句言っても仕方ないって
実際の所、薩摩士族の1人が西郷先生が上京して問いただしてくれませんか?と言ったところを
戦争して問いただすわとかおかしなことになってるし >>42
と言うか、西郷どんの経験からしたら
政治的な負け組から朝廷向けに逆転するための武備上洛って
禁門しかり鳥羽伏見しかり
むしろ負けパターンと言うか、西郷自身が負かして来たパターン以外の
何物でもないんだがな
軍を動かすんだったら本気で、必戦必勝のつもりで掛からないと
政治的デモンストレーションの張り子の虎は役には立たない
その事を一番知ってる筈なのが西郷どん >>38
だろうね
>反乱なら、シンボルになる人間がいなけりゃ
ただの散発な暴動になるよ。 >>38
自分にはそういう感じには受けとれなかった
受け取り方はそれぞれで
自分的には西郷を殺せという命令が出ていて周りが黙ってないだろって話
>ただ、言いたいのはそういう事じゃなくて
あの命令書で立つことを決心したって演出は今までの西郷とはブレ過ぎだろって。
見せ場だろ、この場面。 西南戦争、ほんと熊本は全域に渡って戦火にあってるんだよねー。
そら西郷さんは熊本では嫌われるわなと。それにしても
西南戦争の時の川村とか乃木とかカッコイイ薩摩人いるけど、スルーなんだろうね。
警視庁抜刀隊も、まったくこれまでの経緯描いてないから出てこないね。
白兵戦になって一般公募の政府軍が薩摩軍にやられまくり、
力を持て余していた警視庁の精鋭士族達が選抜され、
その中には戊辰の負組、同じ薩摩でも下士だった警察官達が
参戦して盛り返すとか、赤十字設立エピとか、燃えるドラマてんこもりなのに、
一年かけてこのザマなのは、まあ脚本家の時点で分かってたけどね。 >>48
熊本城は政府軍が西郷軍が来る前に自分たちで燃やして城下町も全て焼いたんだよ
石垣も変形させたりして万全の守備を敷いた 乃木
正確には長府藩だけど
まあ長州みたいなもんだ 発掘された「西郷どん」の新史実 最後の内戦、西南戦争
元号が明治に変わって150年。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」など、その時代に注目が高まっている。
近代日本を方向付け、日本最後の内戦となった西南戦争。熊本城炎上や田原坂(たばるざか)の戦いについて近年、発掘の成果をもとに研究が進み、新たな史実が見えてきている。
事件は、1877年2月19日に起きた。官軍がこもる熊本城の天守閣が「謎の失火」で焼失。
薩軍(鹿児島軍)の工作員が火をつけたという放火説のほか、官軍関係者による失火説などが従来は唱えられてきた。
出火元とされる本丸御殿跡を、熊本市が1999〜2006年に発掘。
報告書を作る過程で新事実が判明する。御殿の中でも「小広間」と呼ばれる部分が激しく焼けており、詳細な火元がほぼ特定されたのだ。
市文化振興課によると、小広間は出土品などからみて、官軍幹部の執務室だった可能性が高い。小広間が位置するのは御殿の一番奥。
そこまでに火をつけやすい場所はたくさんあり、「工作員がわざわざそこまで潜入して放火したとは考えにくい」と同課の美濃口雅朗主幹は推理する。
ではなぜ出火したのか。
「特定の軍関係者以外は入れない場所から火が出、かなり離れた天守閣に延焼するまで有効な消火活動が行われた節がない。
官軍の幹部が自ら火をつけたとみていいのではないか」。
この説は昨年、熊本市で開かれた西南戦争に関するシンポジウムで発表され、大きな反響を呼んだ。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL8T6W4WL8TUCLV005.html?iref=sp_rellink そもそも西郷を殺すのに、刺殺(刃物で殺せ)と手段まで指示するはずないんだよな
刺殺だろうが、毒殺だろうが、崖からつき落とそうが、手段はどーでもいいはずだろ
むしろ事故死や自殺に見せかけて殺してくれたら御の字だろうし >>42
>>45
歴史家の家近氏が慶喜幕府軍が鳥羽伏見で決起したのと西南戦争で西郷薩摩軍が決起した経緯がとても似てると指摘してた
あと鳥羽伏見での薩摩軍の勝利体験が心理的な理由になったと しかし東京に話し合いに行くという台詞は絶対に脚本家の失敗
西郷は話し合いだけなら自らが単身で行くのがモットーでやってきた 来週の部隊の一つになるであろう熊本城にも結構な数の薩摩出身者がいたそうですね
樺山資紀(後に海軍大臣、国会で大暴言吐いた事あり)とか
川上操六(日清戦争の時の陸軍参謀本部の大立て者)とか
大迫尚敏(日露戦争時の第7師団長としてあの203高地を攻略)とか
そこら辺の敵味方に分かれた薩摩士族の心境とか、ちゃんと描いてくれるんだろうか・・・ >>56
いや軍議は実際にそういう少人数で東京行く案も出たらしいぞ
主戦論の桐野篠原が押し切って北上作戦立てた
西郷は神輿だろ >>55
主戦派に対しての言葉
慶喜「かってにせい」
西郷「おいの体をあげもんそ」
責任感と性格のちがいが面白い >>58
だから脚本の失敗なんだろ
西郷自らが望んで西郷軍で東京で話し合いに行くみたいな台詞だったろ 西郷という人物は別に聖人君子でもないし温厚な性格でもないしどっちかっていうとキレやすい人物
だからシサツという言葉を勘違いしてキレたってこと
ドラマでもそういうのを見せるべきだったな
熊吉なんて常に半殺しにされてたんじゃないの? 糸の話が真っ当だよね。
新しき国を作るために悪戦苦闘しているのが大久保で
薩摩で吠えている連中は昔に戻そうとしているだけだもんね 西郷と大久保が長生きしたとしても結局対立する気がする。西郷が自由民権運動に参加したりして。 >>37
先週からCS、チャンネル銀河で月~金放送開始
本日6話目。やっぱ西田&鹿賀役者力がスバラシイ。
脚本は言うまでもない。 =機動戦士ガンダムせごどん=
城山まで追い詰められた西郷軍だが、山中の一角で巨大人型兵器を発掘する。
「運転台の椅子のところに指南書らしきものがあるでごわす」
ついに西郷軍の逆襲が始まった 視察を刺殺と勘違いして起こった戦争なのこれ?
超やばくね? 熊本城は次回け?
おいは官軍に負けたんじゃない!
加藤清正公に負けたんだ!
エピとか
清正が庭の木が天守閣と同じ高さになったら戦が起きる
エピはやるのかな? 西郷って大らかな性格に語られてるようだけど、実際は極度の対人潔癖症だったみたい
一度嫌った人間は死んでも許さないタイプだったらしい
だから征韓論で対立した大久保なんかもシサツセヨが出る前から嫌ってたんだろうな 西郷が立った決定打は私学校生徒たちの火薬庫襲撃。
武器弾薬を強奪した者は死刑。
政府にガキどもを差し出すわけにもいかん、という事で「こン身おはんらに預けもんそ」となった。
しかしこの頃西郷に沸騰するガキどもを押さえつけた節が見られない。
猟だ温泉だ釣りだァと遊び呆けてる。 町田 明広@machi82175302
「西郷どん」45回目を拝見!本日は西南戦争直前の緊迫した鹿児島情勢が描かれました。
最後まで西郷を信じようとする大久保利通、その大久保に裏切られたと考える西郷、そのすれ違い、対立に悲劇の萌芽が感じられ、見ごたえがありました。#西郷どん
まずは私学校について、どのようなものであったかを確認しておこう。
西郷は不穏な鹿児島の状況を改善し、県内士族を指導・統率するために、明治7年6月、旧鹿児島城厩跡に銃隊学校と砲隊学校を開校し、この2校を中核とする私学校を設立した。#西郷どん
銃隊学校(旧近衛兵・約600)は篠原国幹、砲隊学校(旧砲兵・約200)は村田新八が主宰し、また、各地に旧郷士のための136に及ぶ分校も設立された。
授業は午前中のみで、軍事訓練に学課は兵学・史学が中心であったが、漢学や精神訓話もあり、討論の機会も十分に与えられた。#西郷どん
これは藩政時代の郷中教育をベースにしており、その対象を壮年士族にも拡大したものであった。
この他、照国神社南手あたりに、士官養成のための学校で、幼年学校とも称される賞典学校が設立された。#西郷どん
賞典学校の生徒数は約100名で、西郷・桐野利秋・大山綱良らの賞典禄が設立資金に充てられた。
学課では漢学や洋学も取り入れており、外国人教師も招聘された。賞典学校では明治8年度は3名、9年度は2名、成績優秀者をヨーロッパに留学させるなど、極めて進歩的であった。#西郷どん 西郷は坊主でもないし視察かもしれないのに刺殺と読み解いたり
これだから小卒たちはタチが悪いな。 >>72
だから決定打は西郷をシサツセヨだよ
いくらなんでも薩長閥が支配してる政府で嘆願書でも書けば死刑は免れるんじゃないの? 町田 明広@machi82175302
また、吉野寺山には旧陸軍教導団生徒を収容する農学校・吉野開墾社が創設された。
生徒数は約150名で、昼は耕作に従事し、夜は学問をしており、西郷もしばしば足を運んでいる。#西郷どん
西郷は、私学校とは一定の距離を保ち、その運営・指導には直接かかわらなかったものの、幹部や生徒の精神的な支柱となり、政府から恐れられた「西郷党」を形成することになった。
今回は私学校の性格がもう一つ、分かり難かったかも。#西郷どん
大山県令の支持の下、私学校の経費には旧藩から県庁に引継がれた積立金が充てられており、県幹部を始め、区長・副戸長、地方行政組織や警察の要職を私学校幹部がほとんど独占した。
私学校とは名ばかりで、士族独裁を県民に強いる政治機関となった。#西郷どん
私学校の幹部や生徒の中には、過激な論を唱える者も多数存在した。
桐野などは政府打倒を唱えつつ、鹿児島士族が先頭に立って征韓を実現すべきであり、その先の清への侵略も主張するなど、軍国主義を声高に叫んだ。
西郷はこうした暴論を抑制しつつ、西郷自身は政治的な言動は極力避けていた。#西郷どん
西郷は日々、吉野開墾社などで農耕に励み、県内各地で狩猟を楽しむなど、一見平穏な日々を送っており、これは西郷の本来の願望の実現でもあるが、鹿児島に潜入している密偵の目をごまかす側面もあったかも知れない。#西郷どん
西郷は私学校とは一線を画し、基本的に幹部に一任していたが、その幹部が桐野のような反政府・侵略主義者であったので、「西郷王国」はその坩堝と化した。
しかし、西郷はそうした傾向を抑制はしたものの、否定はせず、結果としてその傾向を助長させたことは否めない。#西郷どん 町田 明広@machi82175302
強大な軍事力を維持し、県内を牛耳る私学校を基幹とする「西郷王国」は、カリスマ的存在の西郷の許で強く団結し、しかも、県外にも影響を与え始めた。政府の政策に批判的な各地の士族から、期待をかけられる大きな存在になっていたのだ。#西郷どん
明治政府にとって、「西郷王国」は脅威でしかなく、木戸孝允から鹿児島を放置していると非難され続けた大久保利通にとっては、出身地だけにかえって、もう座視できない緊急の課題となってしまった。#西郷どん
明治8年(1875)2月、大久保は大阪会議を開いて、木戸孝允・板垣退助の入閣を実現し、薩長土の提携を図って、政府基盤の底上げを実現し、残っている条約改正以外の外交問題の対応に取りかかった。
5月には樺太・千島交換条約によって、懸案だった北方領土問題をロシアとの間で解決した。#西郷どん
明治8年9月、江華島事件を起こして朝鮮問題の解決を急ぎ、軍艦を使った示威行動によって、朝鮮を刺激して武力衝突を誘導した。
翌9年(1876)2月、西郷の腹心であった黒田清隆が特命全権大使として乗り込み、日本が初めて外国に強いた不平等条約である日朝修好条規が締結された。#西郷どん
明治6年政変からわずか2年後、大久保政権は自らの手で征韓の一歩を踏み出し、朝鮮との国交が樹立された。この一報が鹿児島に届くと、西郷は激しく政府を非難した。
このあたり、大久保との対立を軸に置くのであれば、ドラマでも見てみたかったかも。#西郷どん
西郷は篠原国幹宛の書簡(明治8年10月8日)の中で、「彼を蔑視し、発砲いたし候ゆえ、応砲におよび候と申すものにては、是までの交誼土実に天理において恥すべき所為」と公理・公道に反するとして、怒りをぶちまけている。#西郷どん 町田 明広@machi82175302
こうして、外交問題の直近の憂いを払拭した政府は、明治9年(1876)3月に廃刀令、8月に金禄公債証書発行条例を公布するなど、士族の特権廃止・縮小に踏み切った。
こうした政府の弾圧政策に対し、不平士族の反乱が頻発する。#西郷どん
明治9年(1876)10月24日、太田黒伴雄を首領とする神風連の乱が熊本で起こった。政府の欧化政策・廃刀今に反発して百数十名が蹶起して県庁・熊本鎮台を襲撃した。
これに呼応して26日に秋月の乱、27日に萩の乱が立て続けに起こった。#西郷どん
特に萩の乱は、西郷と同様に下野した元参議前原一誠が首謀者で、木戸孝允の御膝元の山口県で勃発したため、少なからぬ動揺を政府に与えた。
しかし、各反乱は連携もなく計画性にも乏しかったため、いずれの乱も短期間で鎮圧され、前原も捕縛されて刑死した
また、10月31日には思案橋事件があり、関東での士族蜂起が未然に防がれている。こうした情勢は、私学校関係者にも大きな刺激を与え、政府打倒の挙兵をすべきであるとの暴論が頻りに唱えられ、西郷や幹部がかろうじて暴発を押さえている有様となった。#西郷どん
村田新八はこの様子を、四斗樽に水を盛り腐った縄で括っているようなものと、一触即発の状況を語っている。
かくいう村田も、機会が来れば間髪入れずに蹶起して政府を改造し、西郷を首班とする内閣を作ることが使命であると述べている。#西郷どん
幹部の中で最も冷静沈着で、ポスト大久保利通と言われた村田新八であっても、この程度のプランは持ち合わせていたのだ。
こうした中で、大久保は一戦に持ち込んでも西郷と雌雄を決する段階に至ったと判断し、鹿児島の探索、そして西郷党の離間策や挙兵を促す行為に出る。#西郷どん 町田 明広@machi82175302
大久保利通は大警視川路利良にこれら命じ、明治9年12月下旬には中原尚雄ら鹿児島出身の警部・巡査ら20人余りを休暇帰省として潜入させた。
私学校生徒は彼らの動きを逐次監視し、火薬庫襲撃後に相次いで捕え、激しい拷問を加えた。#西郷どん
そして、中原が西郷暗殺の密命を川路利良から受けていたと自白したため、私学校生徒の怒りは沸点に到達し、もはや幹部でも手の施しようがなかった。
なお、西郷を「視察」するためだったのか、「刺殺」するためだったのか、中原は後年、「視察」のためと述べている。
西郷は「刺殺」に傾いていた感があるが、果たして真相はいかがであろうか。
さて、明治10年(1877)1月、いよいよ政府は三菱の汽船赤龍丸を鹿児島に派遣して、備蓄されている火薬・銃弾の搬出を図った。#西郷どん
そもそも、鹿児島には海軍鹿児島造船所や滝之上・敷根火薬製造所など日本最大級で最新鋭の武器・火薬工場があった。
海軍が使用する弾薬はすべて鹿児島製であり、大量の武器弾薬が生産・備蓄されていて、以前から政府の頭痛の種であった。#西郷どん
政府は、その武器弾薬が西郷党の手に渡るのを恐れ、早期の引き上げを以前から画策していたが、この段階での実行となった。
大久保利通はもう我慢できずに、強硬手段に打って出たのだ。このあたりはドラマでは中原の言葉の中にあっただけで、描写はなかった。#西郷どん
大久保利通が鹿児島県との取り決めを無視し、夜間にこっそり搬出させたことを知った私学校生徒の血気にはやる一部は、西郷暗殺を企図する密偵問題と絡めて激昂し、とうとう一線を越えてしまった。#西郷どん 町田 明広@machi82175302
明治10年1月29日に草牟田の陸軍火薬庫を、同31日から2月2日にかけて海軍鹿児島造船所を襲撃して、大量の武器弾薬を奪い去る暴挙に出たのだ。
大久保利通の挑発にまんまと乗ってしまったが、西郷党の暴発はもはや時間の問題でもあった。#西郷どん
小根古に狩猟に出かけていた西郷は2月1日、末弟の小兵衛から襲撃を知らされて「しまった」とつぶやき鹿児島に急行した。
3日、武村の自宅に着いた西郷は参集していた私学校生徒たちに向かって、「おはんたちは、何たる事をしでかしたか」と大声で怒鳴りつけた。
しかし、西郷は仲間を殴らない。#西郷どん
2月5・6日の両日、西郷を交えて幹部会議があり、今後の方針を議した。西郷による率兵上京が大勢を占める中で、少数意見も存在した。永山弥一郎は西郷・桐野利秋・篠原国幹のみ上京し、西郷暗殺指令について、尋問すべきとした。#西郷どん
村田三介は、自らが中原を護送して上京し、政府に正邪の裁決を迫るとした。野村忍介は、自らが600人の壮士を率いて若狭小浜に上陸し、京都の天皇の許に至り、西郷招致を奏請するといった意見であったが、いずれも成算に乏しく、顧みられなかった。#西郷どん
その中で、西郷小兵衛は兵を三手に分け、一手は海路長崎への進軍という妥当な戦略を主張したが、桐野の平押しに押すという案が大勢を占めた。
最後に決済を求められた西郷は、「おいの体は差し上げもそ」とだけ述べた。これですべてが決まり、西南戦争へ突入する。#西郷どん >>80
若いのがいきり立って幹部たちの手に負えなくなった、というとこまでは理解できるが、
だからといって一緒になって戦争おっぱじめなくたっていいでしょ
頭ついてるんだから、身を隠すなり仮病つかうなり逃げるなり割腹するなり、本当に暴発をくいとめたいなら
ほかに選択肢はいくらでもある 中原尚雄「さーて今週も国父チャンネル収録しなきゃ」 私学校設立に巨額な私財を投じた大久保にとって、西郷は若い連中を抑え込むための無くてはならない人だから
暗殺などしたら、すべての努力が水の泡。
そんなばかげたことをするはずがない。
大久保はあくまで西郷と強力して、若い連中のエネルギーの矛先を私学校のなかで活用したいという願いだった。
なぜ西郷方の面々がそれを理解できず、良い年をした経験ある幹部たちまでもが、一緒になって蜂起してしまったのか、残念でならない 町田 明広@machi82175302
2月12日、西郷・桐野・篠原は陸軍大将・陸軍少将として連名で、届け出を出しことになったが、準備不足の感は否めない。
なお、挙兵直前の「作戦会議」は私学校幹部の個性が表出する重要な場面。個人的には、このあたり見たかった。#西郷どん
大山県令に対し、「拙者どもこと、先般御暇の上、非役にて帰県致し居候処、今般政府へ尋問の筋これ有り、不日に当地発程致代間、
お含みのため此段届け出候、もっとも旧兵隊の者ども随行、多人数出立致候間、人民動揺致さざるよう、一層御保護御依頼に及び候也」との屈出を出した。#西郷どん
これまでの士族反乱では、挙兵の目的を天下に訴える文書を用意していたが、西郷はこれだけしか発しなかった。
なお。「尋問」とは、西郷暗殺指令について、大久保利通・大警視川路利良に問い質すことである。#西郷どん
西郷は、自分への暗殺嫌疑で挙兵することに、大義面分が乏しいと考え、実際には気が進まなかったらしい。
しかし、明治以降の西郷は、部下に任せるが責任は自分が取るとの方針を堅持しており、積極的に挙兵を肯定はしなかったが、否定もあえてしなかったに過ぎない。#西郷どん
こうした背景から、西郷は趣旨書の類は用意しておらず、また幹部と議論した形跡さえもない。
しかも、西郷には戦闘にすら及ばないという目論見があったのではないかとさえ思える節がある。#西郷どん
西郷は陸軍大将であり、国軍のトップである。
しかも、西郷は明治維新における最大の功労者であり、その西郷に弓を引く軍隊など現れないと踏んだ。
川村純義や樺山資紀などの旧薩摩藩出身の軍幹部は、こぞって西郷を迎え入れるとさえ本気で信じていたようだ。#西郷どん
西郷軍の兵力は、出発当初で約13,000人もおり、大砲隊まで備えた本格的な軍隊であり、戊辰戦争では勇猛果敢であると恐れられ、民衆からなる鎮台兵を蔑視していた。仮に戦闘になっても、簡単に蹴散らせると油断していた。#西郷どん 町田 明広@machi82175302
そもそも、西郷は下野して3年余りの間、鹿児島から一歩も出ようとはせず、狩猟と農耕に明け暮れていた。
時代の進歩からは全く取り残されており、しかも、情報収集を怠っていた。 当然、旧態依然とした情勢判断のままであり、西郷自身が「西郷神話」を一番信じていたのかも知れない。#西郷どん
西郷は、戦闘せずに上京が可能と考えていたのだ。
余りの無計画性、準備不足はそうした驕りの表れだろう。
勝負は戦う前から決していたのかも知れない。
最大にして最後の内戦、西南戦争の幕が切って落とされた。#西郷どん 死に場所を探しているなら、若造の扇動に流されてわけのわからん戦争起こすよりも、
刺殺されるほうが、よほど立派 「ボウズヲシサツセヨ」は「ニイタカヤマノボレ」が真珠湾突撃命令だったように
明治維新当時薩摩で吹き荒れた廃仏毀釈に事寄せた一種の暗号で、必ずしも暗殺指令
ではなく西郷の動きを封じろとか別の意味だったかも知れん 質問
・大久保は、私学校反乱の動きあるときは、密偵をもってこれを事前に制圧し、
それがかなわないときに限り、西郷を暗殺せよと命じていた。
・また、西郷も一貫して反乱はするなと言っていた。
・桐野はその暗殺指令を見せて、反乱を西郷に提案
・西郷、なぜか挙兵を決意
西郷は反乱するなと言っていたから、当然西郷の暗殺も無いはず。しかし反乱につながり
かねない挙兵に打って出た。これは大久保のせいというよりは、西郷の軽率なのでは? この時期の西郷をたとえるなら、コーラのビンを振りまくって今にも爆発しそうなのを抑えているフタ、のようなものでしょう。
だから大久保にしてみたら、いかなる場合でもフタはふんばっていてくれなければ困る。
わざわざ好き好んでそのフタを自分でひっぺがすようなバカなマネするわけがないし、それは同時に自分の首をしめるのも同じである。
西郷は、内圧のつよさで、自分からふっとんでしまった。
上のツィートでもあるように、当人は情勢判断もまともにできず、あとは野となれ山となれ状態だった、というのがわりと実情かも >>90
抜けてる
政府は赤龍丸を鹿児島に派遣して備蓄されている火薬・銃弾の搬出を図った
中原尚雄ら鹿児島出身の警部・巡査ら20人余りを休暇帰省として潜入させた >>89
中原は後年「視察」のためと述べている
個人的にはこれは視察だったと思う
殺すならサツガイセヨだと
死殺という言葉があるかなと思って探したがなさそう
わざわざ刺して殺すを指示するのは不自然
他にも殺し方なんていくらでもあるのに
殺し方まで指定するなら毒殺とか証拠が残らない殺し方なら理解できるけど >>67
まーしかし跳ぶの西田はなんか重たいキャラだった
大久保が寡黙厳格で西郷が冗舌で明るいっていう対比は今作の方が分かりやすいかな 薩摩にはオセンシという絶対権威の存在の文化があってオセンシの命令は絶対であった
西郷もオセンシの中の大オセンシであって熊本鎮台に投降を促せれば投降する、西郷軍が進軍すれば味方が増えると信じていたが
薩摩に出ればそんな文化はなくて失敗に終わる
西郷自身が天皇と同じ権威をもってたと自惚れていたのも敗因の原因 >>91
>当人は情勢判断もまともにできず
西郷は統帥以外の能力がなかったが、
村田新八は的確に情勢判断する能力を持っていたと思うが。 さすがに大久保が暗殺を指示したとは考えにくい
西郷がいなくなれば、士族たちが暴発するのはわかり切ってるし、状況は大混乱する
あるいは、それを見越して叩き潰すという大久保の戦略だったともいえるが、大戦争になれば東京は空になるな
いくら何でもリスクが大きすぎる 西郷の立場からすると、鹿児島士族の憤懣は氷山の一角ということだろうな。全国的に爆発寸前
鹿児島士族をなだめて済む問題じゃないという認識だろう 色々な勘ぐりや疑りで戦争の世論を抑えきれずしょうがなく東京目指したったて感じだろうな >>97
> 西郷がいなくなれば、士族たちが暴発するのはわかり切ってるし、
カリスマ神輿がない状況下で桐野や篠原が決起しても政府軍には勝てなかったと思う。 でも一番の原因は視察せよを刺殺せよと勘違いしただけだからね
火薬庫襲撃だけだったら止めなければいけない立場だし
結局の所、勘違いで自分の暗殺計画を知って西郷が立ち上がった
シサツセヨがなければ桐野が主導で反乱ぐらいできるはず 大坂の陣の真田や五稜郭の土方なんかも同じ心境だったと思うが、
もうオイもここらで死んでもいいかな…って気持ちもあったと思う
何がなんでも生き残りたいとか、自分の手によって政府を改革したい
みたいな一念を行動から感じられない
少なくとも真田や土方よりはまだ西郷には状況を改善する
選択肢がいくつかあったのに あれ、本人が死の直前に「視察」だったって言ってるんだよな
でも残された家族の事を考えると、死後何十年経っても未だに
地元では最大の英雄である西郷を「刺殺」するつもりだったとは、
事実であってもなかなか言えないだろうけど >>84
私学校には互いに協力していたなら
大久保と西郷の連絡はいつから途絶えてるの? おいの命、おはんらに預けもんそ
名文句でなかったな >>23
いや、むしろますます盛り上がる気がします。 大村益次郎は西郷はいずれ鹿児島から反乱起こすことを予想してアームストロング砲を大阪で作らせた
それが後の大阪砲兵工廠 >>94
饒舌で明るいようには全く見えないんだけど
今作の西郷はただのお人好し 「西郷どん」は中味がない雰囲気大河だからボォーと流して終わりだが、
「翔ぶが如く」は素晴らしい大河なので色々と考えさせられた。
小林の岩倉が桐野に「おまえを斬る」と脅されたり、大久保、西郷に
振り回されたり、しまいには士族に襲われたりと、小林岩倉も公家だから
こんな野蛮なテロリスト達と付き合うのは大変だったろうなと思った。
実は士族を一番切り捨てたかったのが岩倉や三条じゃなかったのか?
木戸、大久保、西郷には頭が上がらないから、この三人には引退して
もらって、御しやすい伊藤や大隈、板垣らと政治をやりたいのでは?と思った。
西南戦争を謀略したのは岩倉、三条だった可能性もありえる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています