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史実は総攻撃の数日前に西郷が直接下山して出頭すれば許すということだったはずだが?


政府軍の総攻撃を3日後に控えた明治10(1877)年9月21日。

河野主一郎は同じ薩摩人の山野田一輔と共に城山を密かに下山し、当時政府軍の責任者の一人であった川村純義海軍中将に面会を求め、西郷の助命嘆願を交渉しようと試みました。

川村の妻は西郷の母方のいとこにあたるところから、川村なら西郷助命の力になってくれるはずだと考えたからです。

しかしながら、結局その交渉は上手くいきませんでした……。

政府軍は河野と山野田の二人に対し、「西郷を助命したいのならば、その本人である西郷自身が城山を下山し、政府軍本営に出頭することが条件だ」と言い放ち、彼らの嘆願を拒否したばかりか、二人をそのまま拘束してしまったのです。

翌22日、政府軍は西郷助命嘆願の交渉が決裂したことを薩軍幹部らに伝えさせるため、山野田一人だけを解放し、再び城山の薩軍本営に戻しました。

しかし、もう一人の使者であった河野は、そのまま人質として政府軍に抑留されることになったのです。

そして、迎えた運命の明治10(1877)年9月24日。

蟻の這い出る隙間もないほどに、城山を幾重にも取り囲むように布陣していた政府軍は、そこに立て篭もる薩軍に対し、雨嵐のような砲撃を加え総攻撃に出ました。

その日の政府軍の総攻撃により、西郷隆盛以下、桐野利秋、村田新八といった主だった薩軍将兵らは城山の露と消えたのです……。

また、河野と共に助命嘆願の使者をつとめた山野田もその日の内に城山で戦死しました。

一方、政府軍に抑留されていた河野は、最後まで西郷と共に行動するつもりであったにもかかわらず、山野田のように西郷に殉ずることも出来ず、彼は一人生き残らざるを得なくなりました。