【第三十八回】太平記part.38『一天両帝』
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◇内容◇
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…雪の降る尊氏本陣に、足利直義が駆けつけてきた。尊氏は母にもらった手本をもとに地蔵尊の絵を描く日課を行っていた。 「兄上もすっかり抹香臭くなられたものよ…」 と直義は嘆く。そして尊氏が直義に一言の断りもなく和議の使者を送ったことに怒りを示した。
尊氏は謝りつつ
「今が戦をやめるよい潮時じゃ…」と言い、形式上は持明院統と後醍醐の和議ということにして向こうの体面を保ち、義 貞を朝廷から引き離すという考えを述べ、徹底的に帝の権勢を潰そうとする直義をなだめた。
やがて東坂本の義貞の陣に洞院実世からの使者が来て、帝が尊氏と和睦し、京へ戻ることになったと知らせてきた。義貞にはまったく寝耳に水で、「帝が…尊氏と和睦!?」と義貞は愕然とする。
比叡山の行在所では京へ戻るべく帝が立ち上がったところだった。そこへ義貞の家臣・堀口貞満が 「しばらく!」と駆け込んでくる。
「無礼者!」と叱る公家を尻目に、貞満は「本日のにわかな御動座に異議がござります!」と訴え、義貞に何の断りも無く尊氏と和議とは何事と不満を述べる。
公家達は「これは持明院との和議」と諭すが、貞満は「どう名分をつけようとそれでは我が殿が逆賊の汚名を着ること にっ!…」と反駁する。
「我らが殿を見殺しになされるおつもりか!?」と貞満が叫んでいるところへ、「堀口ッ!控えよっ!」と義貞がやってきた。
義貞は帝の前にかしこつつ、「この義貞すらも、これへ参るまでは全く逆上気味でござりました」と言う。帝は「早まるな義貞。京へ戻るは一時の策に過ぎぬ…。なんの私心あって新田を見捨てようぞ…」と宥めた。
帝は自分が京へ戻るのは考えあっての こと、と諭し、北畠親房、四条隆資、懐良親王らを各地に派遣して官軍が立つのを待つのだとの考えを明かす。そして義貞には皇太子の恒良親王と尊良親王を奉じて越前へ向かうよう命じた。
そして恒良親王に帝位を譲っておくから逆賊の汚名を着る心配はないと義貞を安心させる。「義貞、そちが頼りぞ!」との一言に、義貞は平伏する。
間もなく義貞は親王らを奉じて、雪の中、北陸へと向かった。 堅田に陣を張った時、思わぬ人が義貞を訪ねてきた。義貞は陣屋に駆け込むと「内侍どの…!」と声を上げた。「義貞さま…!」どうしても会いたいと追いかけてきた勾当内侍だった。
寝所で二人は抱き合いながら語り合う。
「内侍は…あなたさまにお会いして、初めて人を愛する喜びを知りました…それまでの私はただ人形のように待つばかり…あてもない気まぐれな心を…でも、左中将殿の愛は確かっ!こうして触れ、確かめることが出来る…」
「儂とて、焦がれることがどういうことか、そなたと会うて初めて…」
内侍はどうか連れていってほしいと義貞に頼むが、義貞は冬の厳しい北陸の暮らしは都育ちの内侍には無理と諭し、春になり体勢が整ったらすぐにも呼ぶと約束する。それでもすがりつく内侍を義貞はなだめながら抱きしめるのだった。
…結局これが、勾当内侍と義貞の永遠の別れとなったのである。
義貞軍は木芽峠を越え、敦賀入りを目指す。しかしこの建武三年は異常な寒冷気候に見舞われた年で、義貞軍は極寒の中の行軍に加え、度重なる敵の奇襲にもさらされる。散々な苦労をした末に義貞らはようやく越前敦賀の金ヶ崎城に入った。
一方、京に戻った後醍醐天皇であったが花山院に幽閉された。そこへ見舞いと称して尊氏が訪ねてきた。
「さぞやこの尊氏にお怒りのことと…幾重にもお詫び申し上げまする…」
と言う尊氏に、帝は
「飾る言葉は要らぬ。まことを申せ。まことのそちの思いを…」
と応じつつ「天下を率いて立とうとは思わぬ」と言っていたのは偽りだったのか? と尊氏を糺す。尊氏は、この一年天下のうねりに乗って関東から九州まで駆けめぐり世相をよく見てきた今の自分は、すでに一年前の尊氏とは違うと答える。
建武の新政は失政多く、武士だけでなく庶民も批判を高めているのを自分は見てきた、と語る尊氏に後醍醐は「新政はまだ緒に着いたばかりじゃ…」と反論する。
しかし尊氏は後醍醐が理想とした延喜・天暦の時代とは「世が変わり過ぎており申した……」と鋭く突く。
武士の数も多くなり、庶民の生活も複雑化し、 何より人の考えが変わっている。昔の官制ではとうてい天下の統治は無理であると尊氏は言う。
「どうあっても、幕府を認めよと申すか?」
と言う後醍醐天皇。尊氏は旧北条とは違い公武力を合わせて政治を行うと力説する。
…すると帝も
「武士がそのようなものなれば、朕とは永久(とわ)に相容れぬものぞ!」
と言い切った。
「無念にござりまする…」と尊氏は言った。 引き上げようとする尊氏を、阿野廉子が呼び止めた。廉子は尊氏を一室に招き、
「わらわは早くから足利殿には肩入れしていたつもりじゃ!」
と尊氏に取り入ろうとする。尊氏は今後は持明院統・大覚寺統の両方から交互に天皇を出す鎌倉以来の合意に戻したいとして、現在の光明天皇の皇太子に廉子の子である成良親王を立てたいとの意向を伝える。
これを聞いた廉子は喜び、尊氏はその代わりとして三種の神器を後醍醐帝から光明に引き渡すしてもらえるよう廉子に頼む。廉子も尊氏の手を握り、
「これからは何事も足利殿におすがりいたしまする!」
と言うのだった。 11月2日。三種の神器が後醍醐天皇から光明天皇へと引き渡された。そして尊氏は権大納言に任じられる。かつて源頼朝が幕府を開いた、まさにその時の官位であった。
11月7日。17ヶ条からなる「建武式目」が発表され、尊氏が京に幕府を開くことが正式に宣言された。尊氏は重臣達を集めて「今から後は全て直義に任せたいと思う」との意向を告げる。
高師直が「隠居する気か」と尊氏に聞くが、尊氏は「そうしたいが、そうもまいるまい」と答え、一同に直義を補佐してやって欲しいと頼む。一同は礼をするが、師直はなぜか最後にゆっくりと頭を下げた。そんな師直を直義は厳しい目で見つめていた。
丹波に身を寄せていた母・清子、妻・登子、子の千寿王がそろって京へとやって来た。久々の一家団欒にみな喜び、談笑にふける。清子が「政はみな直義どのに任せているとか?」と聞くと尊氏は「直義はわしより筋の通った政をする」と答え、
直義は「いや、いざというときは兄上にも出ていただかねば(笑)」と謙遜する。そんな息子達を見て「兄弟力を合わせて、いつまでも仲良う頼みまするぞえ…なにしろ、お二人は父上もかなわなんだ夢を見事に果たされたのじゃから」と清子は微笑む。
談笑のなか、直義は尊氏に後醍醐天皇のいる花山院の警備を緩めるのは問題がある、と議論し始める。北畠親房らの活動も活発で、油断がならないと言うのだ。しかし尊氏は自分達にとって特別な先帝であり神器を譲ってくれた前君に滅多な扱いは出来ぬ、と答える。
「兄上は先帝のこととなるといつも甘い…」と直義はぼやく。そんな声をよそに尊氏は千寿王に「琵琶湖を見せてやる」などと言って笑っているのだった。
12月21日。都を震撼させる異変が起こった。花山院に幽閉されていたはずの先帝・後醍醐天皇が姿をくらましたのである。直義は警護の兵士を怒鳴りつけ、畿内各地に追っ手を手配させる。
幕府にも師直や高師泰、細川顕氏などが続々と駆け付け、大騒ぎとなっていた。師直は警備を任されていた直義の責任を問いただす。直義は尊氏が警備を緩めるよう言ってきたのだと弁解し、
「大御所の恩が仇になってしもうた…」と無念そうにつぶやく。師直が直義に顔を寄せ、「もっと早く、しかるべきご沙汰をなさるべきでしたな?」と密かに囁く。
そこへ尊氏がやって来た。直義が尊氏に謝罪していると、佐々木道誉も笑いながら姿を現した。後醍醐は女装までして逃げたらしいと道誉は言い、「さすが先帝はただ者ではござらぬわ(w)」と大笑いする。
尊氏は言う。「こたびの事は、先帝の御意のままに出でしこと。されば、以後の責めは我らにはない」考えてもみよ、と尊氏は一同に説明する。
先帝ご一身のために幕府が費やす警備の負担は大変なものであり、しかも期限というものが無い。かといって遠くの国に 流すというわけにもいかず、悩んでいたら此度の出来事。むしろ「不幸中の幸い」というべきである、と尊氏は言うのだ。
これを聞いて道誉も「さすが足利殿、我らには思いも及ばぬお考えじゃ(w)」と感心したように言う。
直義や師直が手引きしたと思われる北畠など畿内勢力が気にかかると意見するが、尊氏は「何もすることはないのじゃ」と言い、いずれ事態は収まるところに収まる、と楽観的な見方を示すのだった。道誉は「果たして足利殿の申されるように参りますかな?」と口を挟んだ。
大和国・吉野。京を脱出した後醍醐天皇は北畠親房らの手引きで12月28日に吉野の金峯山寺に入った。そして
「すみやかに延元の年号を復し、足利を討伐するのじゃ!」
と宣言する。ここに吉野と京に二つの朝廷が開かれることとなった。世の人はこれを「一天両帝・南北京」と称した。南北朝動乱の始まりである。
…後醍醐天皇は足利討伐の命を各地に発した。陸奥・霊山城にあった北畠顕家のもとにも後醍醐の呼び出しの命が届く。
顕家は足利方の常陸国・佐竹氏など周囲の敵を破った上でただちに西上する決意を固める。
「なんとしても公家一統の火を絶やしてはならぬ。帝の御心を忘れてはならぬぞ!」
顕家は結城の家臣達に言い渡した。
「そうやって絵筆をとっていられるのも長くはあるまいの」道誉が地蔵尊の絵を描く尊氏に言う。各地の吉野勢も挙兵し、いよいよ正面から戦わねばならなくなったのだ。
「むつかしい世になってしもうた…」とつぶやく尊氏に、「それもこれも足利どのの曖昧な態度ゆえぞ」と道誉は言う。
「一度墨につけた筆は白くはならぬ…もはや引き返すことはできぬ…さようなことは…」そう尊氏は道誉につぶやくのだった。
◇太平記のふるさと◇
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福島県・霊山町。北畠顕家が義良親王を奉じて立てこもった天然の要害・霊山城を紹介。ふもとにある北畠父子を祭った霊山神社とそこに納められた顕家二十歳の肖像画、直筆の書状などを映す。
日本史板に「太平記」のスレが立ってる
なぜ日本史板に?と思うが 少し昔に安徳と後鳥羽が一天両帝だったから今さらって感じよね 一天両帝の言葉は『大乗院日記目録』の記事にある「一天両帝、南北京」だからな・・・。
ちなみに同じ史料の南北朝合一の日の記事は「南北御合体、一天平安」となっている。 両統並立状態は、安徳&後鳥羽以前にも、弘文&天武とか、安閑・宣化&欽明とか、いろいろあるよな >>5
覗いてないから分からないけれど
そこで三河屋封印してくれるならいいんじゃね? 前スレ985
藤村志保は、BSTBSでやってる「温泉へ行こう」に出てる
再放送だから意味がないかもしれんが 一天平安。素晴らしい響きの言葉だ。
うんこ尊氏は孫に頭が上がらないだろうな。
この回の最後で判官殿も直諫している。尊氏の曖昧な態度が天下を乱しているとな。 >>13
それから100年もしないうちに応仁の乱が起こるのは皮肉だけどなw >>13
この孫の代の大河が見たいんだよね
陣内、沢口を使うなら賞味期限はあと数年でしょうし 「すみやかに延元の年号を復し、足利を討伐するのじゃ!」
と宣言する。ここに吉野と京に二つの朝廷が開かれることとなった。世の人はこれを「一天両帝・南北京」と称した。南北朝動乱の始まりである。 吉宗の時で良かったが
2年連続足利避けるなら利家まつあたりだったか >>18
徳川は家康、吉宗、葵、慶喜など大河で沢山放映されてるのに足利は尊氏と義政のみ
この差はなんなのか?
室町時代好きにとっては残念 >>20
>>19は足利将軍が主人公の大河、と言いたかったのだと思う
義輝、義昭は来年の「麒麟がくる」にも登場するしね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています