太平記part.51
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ソナチネのDVD借りたら円心が出ていた
それもクレジットはたけしとヒロイン(おっぱい要員)に次ぐ3番手 島津忠久が住吉大社の稲荷社で生まれた時に雨が降ってたから
島津家では雨は縁起が良いもので島津雨という
稲荷(狐)が島津の神なのもそれでだと鹿児島県が言っておる
時雨軍旗なるものが残されてるのもそれゆえ ジェネリック頼朝なら直冬レベルの信頼性だけど希義の子も居るっちゃ居る 蒲の子孫が吉見氏でいるだろ
頼朝の兄弟なら坊門姫の子孫が1番有名 この頃はバブルの時期ということもあり「いざ キャバクラ」という言葉がよく使われた 義朝の落胤を称して古河公方の側にいながら源氏に変えちゃう小田氏 後醍醐天皇から偏諱を与えられ、以後は通字として用いた小田氏 歴代の天皇なんかはその時代の勝者の血が入ってるからね >>366
そこは天皇家・摂関家を網羅しているからなw
それを言い出せば後醍醐も坊門姫の生物学的子孫 もうそれいつかDNAが混じり合うエターナルコピペそのままだなw
即位前から臣下な武家や公家と北朝方歴代の○仁親王のDNAが混ざり合ったのが今の皇室だし 西園寺公望が約600年前の西園寺公宗のことで色々言われたりあの社会の血の繋がりって面等臭いよな 村上は、あの戦で信濃の守護になったのか
武田晴信に攻めこまれて越後に追われるけど >>377
村上は守護にはなってない
室町期の信濃守護は基本的には小笠原
但し義満〜義持の頃には
上杉や斯波が信濃守護になったり
守護不設置で幕府料国化されたり
した時期も一時的にあるが 守護には補任されなかったが、信濃惣大将に任じられたんだったな 昨日の『ニッポン人のお名前』で「なぜ宮崎には『甲斐』さんが多いのか?」というのがやってたが
南北朝時代に足利尊氏が南朝方の肥後の菊池氏討伐に甲斐氏をむかわせたが 甲斐氏は破れて日向(宮崎県)に逃げ込んでそのまま住み着いた というエピソードをやっていた
この話がドラマでとりあげられることはないとは思うが、尊氏の家臣に甲斐というひとが出てくることに期待したい >>367
「キャバクラ殿の13人」なるタイトルが頭に浮かんでしまったw(客を巡るホステス13人の内ゲバものかw) 菊池庶流の菊池(甲斐)重村のことでは。
甲斐宗運の先祖。 >>386 そーみたいね お父さんが日向国の領主だったらしいから間違いない 甲斐宗運というのは無敗の戦国武将なのか知らなかった
戦国大名で阿蘇氏というのもはじめてきいたが 麒麟が来るに阿蘇氏の名前がでてくることに期待する >>385 キャバクラ殿のライバルで平泉さんとか出てきそう 金色のベンツで来店する大富豪 >>387
惟任日向守をご存知ない?w惟任や惟住を 阿蘇氏は戦国どころか古墳時代には既に勢力化してるし。
大河でも多々良浜の戦いを取り上げてたら出演してただろうな。 筑前とか日向守は中国の毛利を飛び越えて九州まで平定するぞとかで
名乗らせたんだよね >>394
謀反人の家の名跡を継ぐこと自体けしからんということなんだろ? いまテレビでカリオストロの城がやっているが
直義「あのイザヤ丸というのは兄者の子供だな」
尊氏「あれっ 言わなかったっけかー」 菊池は北条時宗に出てたな
モンゴル軍と勇ましく戦ってたわ そういえば菊池出てきてないのか
原作だとちゃんとエピソードあるのにね >>376
パリコミューンでくわしたり
公望もなかなかすごい 九州の国人衆も困惑しただろうな。朝敵が九州に落ちてきたんだから 西園寺はネームバリューが先行してるな。テレビドラマでおいしい役の名前は西園寺が多いからな >>405
公家の家名で3文字のもののなかでは世間的な知名度が比較的高いからな 西園寺公望は桂園時代とか元老で教科書に出てくるからなあ。 高貴な出自の首相
1.東久邇宮稔彦(皇族)
2.近衛文麿(摂関家)
3.西園寺公望(清華家)
4.細川護熙(大名家) 会津戦争みて
日米戦直前まで生きてる
日本近代史の生き字引なんだけどな西園寺 このスレ的に細川は和氏が千寿王に平伏してた足利一門の下っ端なんだよな >>405
薩摩の田舎武士なのに金持ち・貴族に使われる伊集院 伊集院といえば海坊主
長い苗字って強そうじゃん
長宗我部とかはフィクションであまり聞かないけど 西園寺は始祖が金閣寺辺りに建てて、家名も西園寺にしたんだっけな。
金閣寺が建つと別のところに移ったけど。 七五三野(しめの)ってなんで読みより漢字の数が多いのか これが雅な読み方なのか なんとなくいいひとに思えるよね >>413
在日のペンネームに使われて地に堕ちた苗字 次回は寝そべった馬に跨がってから乗ったまま馬を立たせるというすごい乗馬テクの回
てか馬がすごくない? 綸旨
それはまさしく天皇の文書
令旨
これは親王・王の文書
令和
今上の諡になる元号
不敬な元号を選んだ人がこの大河に出てるな 放送当時は騎馬武者像が尊氏の肖像画とされてたから
ロン毛の真田広之が出てきた時は、その格好よさもあって
演出手法に感心したのを思い出したよ 思うんだが戦が止めたいのなら尊氏は右馬助をそうそうに義貞のところに派遣すべきじゃないか? >>427
長崎高資「真田君が待ち時間に尊氏の肖像画をずっと見て、尊氏になりきろうなりきろうと」
司会 「執事の人になっちゃいますよ」
そういえば不知哉丸の子役は今日で最後だ。お疲れ様。
石も最後なら清子さんに「わしの親は足利に殺された」くらい詰め寄ってもよかったろうに。 帝の意志がどうあれ、朝廷が足利を潰すと決めてるんだから尊氏に選択肢はないわね。 またしても戦えば負ける直義
「かかれぇ」→ナレーション敗北は何度目だ? 昨日は関ヶ原に行ってきたが、足利軍と後醍醐軍も戦をしたんだな
安土城跡からの本日は犬山城〜岐阜城攻めるなり
夜時間あったら長良川温泉も行きたいが放送と被ると厳しいな
オススメ教えて候 後醍醐が尊氏はなぜだぁなぜだぁ!って言ってたけど
坊門のせいですよっと
公家や官吏は古今東西でガン >>432
壬申の乱でも南北朝時代でも決戦の地だね 尊氏の仏門入りは無意味だったな
いらん犠牲者が増えただけやで
ほんとに史実なんか >>435
やはり、関東関西の関所があったように、関ヶ原は昔から要衝というか東西がぶつかる場所なんだな 関ヶ原で耕作してるような百姓にはたまったものではない 決戦地近くに今も民家は密集してたな
地元民からすると確かにいい迷惑だろうな
乱取りもされただろうし >>431
武闘派タイプのキャラは、強いイメージがあったけど、直義は違うようだね。 >>410
貴族院議長と副議長はさすがにすごい。
徳川宗家に国持大名に公卿 やっぱ新政府は公家と武家のバランスが重要なんだなあ。
建武の頃はそうも言ってられないけど。 尊氏「新田義貞を討つ!」
あれほど新田とは戦いたくないと言ってたのに、よく決心した >>436
史実だと
尊氏「北条残党をやっつけるのも、関東で論功行賞やるのも、ぜんぶ後醍醐さんのためなんだから、きっと分かってくれるはず」
後醍醐「そんな訳ないだろうこの謀反人!」
尊氏「後醍醐さんがあんな酷いこと言うなんて、もう何もかもどうでもいい」
てな感じだからなあ
そもそも尊氏は後醍醐天皇に逆らうって発想も覚悟もなかったから、ああいうグダグダムーブになった気がする
ちなみにもう少したつと
尊氏「なんで後醍醐さんはわかってくれないんだろう‥‥。そうだ、自分が他の人(北朝)と付き合ってみせれば、後醍醐さんもこっちを見てくれるはず」
と拗らせる模様 >>439
落武者狩りってその報復とか、掠奪で受けた損害の補填とか、そういうのがあったんだろうなあ >>444
ここは少し尊氏、義貞双方に相手と戦う苦渋みたいのを入れて欲しかったような気もする。 昔の戦って
兵糧のために
農作物を奪われたり、田畑や家を焼かれたり
敵方の基盤を破壊するために
民が虐殺されたり、さらわれたり・・・
就職先だったり、戦功たてれば恩賞もらえたり
戦に関係ない民衆は、弁当もって戦見物したり
落武者狩りやって小銭稼いだり
民衆って、結構したたか? >>425
あの当時はちゃんと右乗りに調教された馬も使ってたしねえ
今は普通に左から乗ってやがる 尊氏って鎌倉行ってから守時や貞顕の墓や供養塔に参ったりしたんだろうか?
あの足利の屋敷って確か若宮御所の跡に建てたもんだよな。 >>440
これまでタダのKYとしか描かれていない哀れな直義
今で言う発達障害だったのかも >>447
尊氏と直義が長幼逆だったら
「鎌倉の尊氏がピンチや、すぐ助けに行ったろ」
「このまま関東に幕府開いたろ」
「後醍醐天皇は島流しや、持明院統一本にしたろ」
みたいになったのでしょうか >>455
その2人の歳が逆だと『政治の巧い兄と戦に強い弟の源氏兄弟』というどこかで見た組み合わせになって、何だかとてもヤバい気がする お前らが尊氏なら美濃で新田軍を破った後そのまま京になだれ込む?
俺なら鎌倉に凱旋するな。なぜなら腹背の北畠が怖いからだ。北畠を駆逐し奥州を平らげたら事実上の東国の主。その後ゆるゆる後醍醐と政治交渉したらいい。それでも後醍醐がガタガタ言ってくるなら承久の乱よろしく東国の武士を結集し、電光石火で京を攻め落とすのみ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています