太平記part.51
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菊池庶流の菊池(甲斐)重村のことでは。
甲斐宗運の先祖。 >>386 そーみたいね お父さんが日向国の領主だったらしいから間違いない 甲斐宗運というのは無敗の戦国武将なのか知らなかった
戦国大名で阿蘇氏というのもはじめてきいたが 麒麟が来るに阿蘇氏の名前がでてくることに期待する >>385 キャバクラ殿のライバルで平泉さんとか出てきそう 金色のベンツで来店する大富豪 >>387
惟任日向守をご存知ない?w惟任や惟住を 阿蘇氏は戦国どころか古墳時代には既に勢力化してるし。
大河でも多々良浜の戦いを取り上げてたら出演してただろうな。 筑前とか日向守は中国の毛利を飛び越えて九州まで平定するぞとかで
名乗らせたんだよね >>394
謀反人の家の名跡を継ぐこと自体けしからんということなんだろ? いまテレビでカリオストロの城がやっているが
直義「あのイザヤ丸というのは兄者の子供だな」
尊氏「あれっ 言わなかったっけかー」 菊池は北条時宗に出てたな
モンゴル軍と勇ましく戦ってたわ そういえば菊池出てきてないのか
原作だとちゃんとエピソードあるのにね >>376
パリコミューンでくわしたり
公望もなかなかすごい 九州の国人衆も困惑しただろうな。朝敵が九州に落ちてきたんだから 西園寺はネームバリューが先行してるな。テレビドラマでおいしい役の名前は西園寺が多いからな >>405
公家の家名で3文字のもののなかでは世間的な知名度が比較的高いからな 西園寺公望は桂園時代とか元老で教科書に出てくるからなあ。 高貴な出自の首相
1.東久邇宮稔彦(皇族)
2.近衛文麿(摂関家)
3.西園寺公望(清華家)
4.細川護熙(大名家) 会津戦争みて
日米戦直前まで生きてる
日本近代史の生き字引なんだけどな西園寺 このスレ的に細川は和氏が千寿王に平伏してた足利一門の下っ端なんだよな >>405
薩摩の田舎武士なのに金持ち・貴族に使われる伊集院 伊集院といえば海坊主
長い苗字って強そうじゃん
長宗我部とかはフィクションであまり聞かないけど 西園寺は始祖が金閣寺辺りに建てて、家名も西園寺にしたんだっけな。
金閣寺が建つと別のところに移ったけど。 七五三野(しめの)ってなんで読みより漢字の数が多いのか これが雅な読み方なのか なんとなくいいひとに思えるよね >>413
在日のペンネームに使われて地に堕ちた苗字 次回は寝そべった馬に跨がってから乗ったまま馬を立たせるというすごい乗馬テクの回
てか馬がすごくない? 綸旨
それはまさしく天皇の文書
令旨
これは親王・王の文書
令和
今上の諡になる元号
不敬な元号を選んだ人がこの大河に出てるな 放送当時は騎馬武者像が尊氏の肖像画とされてたから
ロン毛の真田広之が出てきた時は、その格好よさもあって
演出手法に感心したのを思い出したよ 思うんだが戦が止めたいのなら尊氏は右馬助をそうそうに義貞のところに派遣すべきじゃないか? >>427
長崎高資「真田君が待ち時間に尊氏の肖像画をずっと見て、尊氏になりきろうなりきろうと」
司会 「執事の人になっちゃいますよ」
そういえば不知哉丸の子役は今日で最後だ。お疲れ様。
石も最後なら清子さんに「わしの親は足利に殺された」くらい詰め寄ってもよかったろうに。 帝の意志がどうあれ、朝廷が足利を潰すと決めてるんだから尊氏に選択肢はないわね。 またしても戦えば負ける直義
「かかれぇ」→ナレーション敗北は何度目だ? 昨日は関ヶ原に行ってきたが、足利軍と後醍醐軍も戦をしたんだな
安土城跡からの本日は犬山城〜岐阜城攻めるなり
夜時間あったら長良川温泉も行きたいが放送と被ると厳しいな
オススメ教えて候 後醍醐が尊氏はなぜだぁなぜだぁ!って言ってたけど
坊門のせいですよっと
公家や官吏は古今東西でガン >>432
壬申の乱でも南北朝時代でも決戦の地だね 尊氏の仏門入りは無意味だったな
いらん犠牲者が増えただけやで
ほんとに史実なんか >>435
やはり、関東関西の関所があったように、関ヶ原は昔から要衝というか東西がぶつかる場所なんだな 関ヶ原で耕作してるような百姓にはたまったものではない 決戦地近くに今も民家は密集してたな
地元民からすると確かにいい迷惑だろうな
乱取りもされただろうし >>431
武闘派タイプのキャラは、強いイメージがあったけど、直義は違うようだね。 >>410
貴族院議長と副議長はさすがにすごい。
徳川宗家に国持大名に公卿 やっぱ新政府は公家と武家のバランスが重要なんだなあ。
建武の頃はそうも言ってられないけど。 尊氏「新田義貞を討つ!」
あれほど新田とは戦いたくないと言ってたのに、よく決心した >>436
史実だと
尊氏「北条残党をやっつけるのも、関東で論功行賞やるのも、ぜんぶ後醍醐さんのためなんだから、きっと分かってくれるはず」
後醍醐「そんな訳ないだろうこの謀反人!」
尊氏「後醍醐さんがあんな酷いこと言うなんて、もう何もかもどうでもいい」
てな感じだからなあ
そもそも尊氏は後醍醐天皇に逆らうって発想も覚悟もなかったから、ああいうグダグダムーブになった気がする
ちなみにもう少したつと
尊氏「なんで後醍醐さんはわかってくれないんだろう‥‥。そうだ、自分が他の人(北朝)と付き合ってみせれば、後醍醐さんもこっちを見てくれるはず」
と拗らせる模様 >>439
落武者狩りってその報復とか、掠奪で受けた損害の補填とか、そういうのがあったんだろうなあ >>444
ここは少し尊氏、義貞双方に相手と戦う苦渋みたいのを入れて欲しかったような気もする。 昔の戦って
兵糧のために
農作物を奪われたり、田畑や家を焼かれたり
敵方の基盤を破壊するために
民が虐殺されたり、さらわれたり・・・
就職先だったり、戦功たてれば恩賞もらえたり
戦に関係ない民衆は、弁当もって戦見物したり
落武者狩りやって小銭稼いだり
民衆って、結構したたか? >>425
あの当時はちゃんと右乗りに調教された馬も使ってたしねえ
今は普通に左から乗ってやがる 尊氏って鎌倉行ってから守時や貞顕の墓や供養塔に参ったりしたんだろうか?
あの足利の屋敷って確か若宮御所の跡に建てたもんだよな。 >>440
これまでタダのKYとしか描かれていない哀れな直義
今で言う発達障害だったのかも >>447
尊氏と直義が長幼逆だったら
「鎌倉の尊氏がピンチや、すぐ助けに行ったろ」
「このまま関東に幕府開いたろ」
「後醍醐天皇は島流しや、持明院統一本にしたろ」
みたいになったのでしょうか >>455
その2人の歳が逆だと『政治の巧い兄と戦に強い弟の源氏兄弟』というどこかで見た組み合わせになって、何だかとてもヤバい気がする お前らが尊氏なら美濃で新田軍を破った後そのまま京になだれ込む?
俺なら鎌倉に凱旋するな。なぜなら腹背の北畠が怖いからだ。北畠を駆逐し奥州を平らげたら事実上の東国の主。その後ゆるゆる後醍醐と政治交渉したらいい。それでも後醍醐がガタガタ言ってくるなら承久の乱よろしく東国の武士を結集し、電光石火で京を攻め落とすのみ。 >>461
君側の奸を排除して後醍醐と仲直りできると思ってたのでは? >>462
ちゃんと本人たち引っ張り出してロケしたシーンあるからむしろありがたいでしょ
やっぱり一話の中に少しでもロケシーンがあると「おぉっ」ってなるよね
コロナの問題がえるとはいえ麒麟の合戦シーンははちょっと残念 ・内侍殿が好きな人って誰だよ・・・散々新田に気がある振りしてさあ・・・
・武士にするとか今さらなめんじゃねえ!→寺か・・・イザヤ丸の為なら・・・ ってなっちゃう石って本当にいい人
・6万で新田が攻めてきてます! 尊氏「何!?」←護良殺し、東国支配、申し開き無し 何故討伐されないと思ってたのかw
・判官殿「お前が駿河に来なきゃ寝返るから」 右馬介「駿河で判官殿が新田に降り・・・」 尊氏「佐々木が・・・寝返ったか・・・(意外)」← 尊氏君さぁ・・・ちょっと記憶力ヤバない?
・俺「総崩れになってからようやく出陣て後手後手でしょ絶対ダメなパターンじゃん」 紀行「公家75人が自害、総大将も川に沿って落ち延び・・・」次回「大☆逆☆転」←だから速攻のネタバレやめロッテ 戦場での尊氏って本気になればほぼ無敵だけど、本機になるまでやたらと火付きが悪いんだよなあ 直義は何度尊氏に尻拭いて貰ってるんだか笑
話が逸れるけれど、昔の日本の住まいって身分関係なく開放的な造りだったから埃が凄かったんだろうな
ドラマでも甲冑付けたまま土足でヅカヅカ上がり込んで来たり、あれじゃあ幾ら掃除しても追っつかないよ
埃の中で暮していた様なものだよね
雑巾掛けとかはしていたんだろうか
自分の家も子供達が元気に公園で遊んで帰って来た後なんか凄いもんだ
昔観ていた時ははそんなところ気にしなかったが、自分が掃除する立場になってみてやけに気になる笑
以上、失礼しました 昔は家人が掃除してたから
今は自分で掃除するorz どうせなら同じシーンを色んな角度から撮って使い回せばいいのにね。 >>474
今世紀における葵さんの大活躍のことですか 太平記のふるさとが来週の話してて不思議だったけど来週はとんでもねぇスピードで駆け抜けるんやな 直義、すしざんまい!
さらに家臣一同、すしざんまい!! opの騎馬武者のシーンを使いまわしてるよね
足利決起とか尊氏叛くとか今回とか
opの中央の人はやっぱり真田さんぽい >>469
つーか、政務の大部分を直義がやっていたんだし、尻拭いしていたのは直義でしょう。
尊氏がやる気出したのは、かなり遅れてから。 >>456
ヤバイと言うか京ではなくて鎌倉に幕府を開いてしまうかもね? とりあえず、尊良親王が上位将軍であったことと、くっついてきた二条為冬ら公家が足を引っ張りまくったことを本編で触れないと、
義貞や脇屋義助が浮かばれまい。 ところで数年前に生品神社の銅像が盗まれたが、あっさり献金で再建された。
問題は義助の子孫を名乗る彫刻家の作品の出来が今一つ…… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています