【1991年 大河ドラマ】太平記part.53
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流石>>1はただ者ではござらぬわ
はっはははははははは ・ここは大河ドラマのスレッドです
歴史談議はほどほどに致しましょう ・ここは大河ドラマのスレッドです
歴史談議はほどほどに致しましょう 尊氏はまだ将軍に任命にされてないのに建武式目を定めて幕府を開いたんだな。せめて右大将くらいにはなればよかったのに。征夷大将軍は後付けか 源頼朝も鎌倉幕府話を征夷大将軍に任命される前に既に開府してるからな
先人の例があるから特に違和感もないやろな >>13 そうだよな なんか最近の授業では鎌倉幕府の成立は1192イイクニ ではなく1185イイハコ と覚えるらしい 幕府と将軍の任命は関係ないんだな
でも俺はイイクニつくろう鎌倉幕府でおしとおすつもり 天皇が鎌倉幕府を認めるというのは凄いことだと思うのね 後醍醐も親王を将軍にして尊氏に関東を任せても良かったんじゃないかな
後の室町幕府ですら鎌倉府を置く形での間接的な統治しか不可能だったわけだし 松村
「高師直が室町幕府の箕部幹事長になっていたという。」 >>14
頼朝が後白河法王からもらった
右近衛大将は征夷大将軍より格が上 前スレ>>989
父上様、お帰りなさいませ
他にも、イヤじゃイヤじゃ 結構喋ってる ゴクミが下命してたムネタダって誰?
結城にはそういう名前はいないっぽいが。 ここ数回の放送で左中将のが坊門清忠の声で再生されるようになったw >>12
そもそも「幕府を開いた」の定義があいまい
征夷大将軍になる前から
実質的に国のトップと自称してるとか
足利尊氏だったら
後醍醐天皇に三種の神器を返納させて
光明天皇をたてた時点で「鎌倉殿」と呼ばれていたらしい
京都にいても「鎌倉殿」が武家の棟梁
室町幕府と呼ぶのは後になってから 鎌倉殿って再来年の大河だな
北朝が鎌倉殿と呼んでたということ?
南朝はどうだったんだろ?認めてないけど鎌倉殿と呼んでたのかな あれ?ここなの?前スレが重複していたはずだけど、あっちは使わないの? 親房「まてぃ!和泉のどこじゃあ!」
太平記のふるさと 阿倍野神社 IPPANグランプリ予選のお題
【あっこれ死んだな! 何が起こった?】
第38回 顕家散る
第39回 義貞の最期 なんで認知しないの?
自分の子か疑ってたならわかるけど
この展開で認めないのは不自然じゃねーの 筒井、棒のイメージで見たら、感情表現が意外と上手で、好演だった
ゴクミ最期の回にりえの忘れ形見をフィーチャーするとか
ドラマの位置づけはりえ>ゴクミだったな そういえば3、4年くらい前に松本清張賞の最終選考あたりに、
『顕家の旗』ってあったの見たので、出版されないかなとちょっと思った。 あれだけ息子がフラグ立てまくってるのに止めなかった父
ゴクミはビジュアルは良いけど本当に棒だな
宮沢りえはセリフに抑揚があっても棒気味
筒井道隆は声が籠ってるのと華のなさが言われてたが
デビュー当時から演技は評価され月9主役に推されてた今見ても若手陣の評価同じだな
>>31
その近藤正臣の名演が光る回だったね あれだけ豪華だった登場人物もだいぶ減ってきたな
すでに中盤クレジットが足利家臣ばかりになってる
そろそろ高橋悦史の桃井が出てくるころだな
おしんの義兄弟共演あるか? 大河で足利義満をやってくれたら判官殿をはじめまだ同じ人がやれそうなんだがな
ある意味では尊氏以上に難しいか 尊氏「母上の藤夜叉殿は都で有名な舞の名手であった」
不知哉「いえ、母からは『ちっ、どうにでもなれ』とおしっこ漏らすまで殴られ、蹴られした話しか聞いておりません」 顕家は企画で「神々しい美少年」でゴクミの起用になったんだろうし、大河本では本人も希望したらしい。
だが、ちょうど一番オンナオンナしていた時期だったので、どうみても親房と父娘にしか見えなかった
体型も完全に女だったので後半の出番はごまかすために、ほとんど鎧だったのだろう。
「お姫様役」の方を選んでいれば、誰だったのか気になるが。 >>31
闇落ちしてJOKERになり東国で躍動するんだな
尼さんがえろかったわー >>36
対面のシーンでの感情の振れ幅は見事だったな
今後は常に怒ってるシーンばっかりの印象だからそこでの感情表現が単調なのかも >>33
仮面ライダーブラックの「激闘!ダロムの死」を思い出す 藤夜叉、正成、顕家、来週の義貞、最終回の尊氏とタイトルにひねりがないよな。 何か薄〜い回だったな。
珍しくゴダイゴでなかった? >>8
洞院実世って南朝方のなかでもかなり強硬な主戦派なわけだし
足利との和睦に反対だから新田に伝えて逆上した新田に阻止させようって腹にも思えた >>14
頼朝は寿永二年十月宣旨(1183)の段階で後白河に東国の支配権を認められているし
守護・地頭設置を認める勅許(1185)の段階でその朝廷公認の支配権は全国に拡大している
征夷大将軍への就任が幕府(新政権)樹立の条件ではそもそもないし
研究者レベルでは遥か昔の明治期から
・鎌倉幕府成立=文治元年(1185)
・室町幕府成立=建武3年(1336)
というのは常識
征夷大将軍就任=幕府成立とするイメージが強くなったのは後の江戸幕府の成立経緯
(こちらは征夷大将軍に就任しない限り家康はただの豊臣政権の大老から脱却できない)
に引きずられていることと
教科書的にこちらのほうがわかりやすかったからだろうね ・ここは大河ドラマのスレッドです
歴史談議はほどほどに致しましょう >>53
尊氏が正式に大将軍になるのは義貞が死んだ後なんだよな
その辺りの政治的意義も気になる 義貞の死で畿内周辺の主だった武家勢力が駆逐されたからというのもあるからやろ 筒井道隆って、この当時、今で言えば岡田健史くらいの絶賛売り出し若手だったかな。
毎年、若手売り出し枠の出演があるのも、大河の伝統。 後醍醐という人間にそんな価値ないっていう認識だから
宮方や尊氏みていて悲愴感や滑稽味を感じてしまう 素朴な疑問なのだが、代々の鎌倉公方ってどうして京にいる将軍と仲が悪かったの?
両方とも同じ足利本家の直系だからライバル意識が強かったのか、
あるいは東国の反幕府勢力に(機内では後南朝がそうであったように)神輿としてかつがれることが多かったのか。 >>61
後醍醐が遠隔地である奥州や九州に皇子・腹心を派遣して自らの地盤にしようとしたのは
南朝の延命という点では正しい戦略
>>62
室町幕府は諸事情により京都を拠点にしたけど東国武士の間では
「東国こそが武家政権の本来あるべき場所」というような意識が根強くあって
そうした人々に担がれていることが鎌倉府(関東府)が反幕府的になる最大の要因だろう 将軍と鎌倉公方の諍いの最大の理由は将軍継嗣問題やろ
なまじっか将軍と鎌倉公方の血統が近すぎるのがあるから、何か将軍家に事があれば鎌倉公方が代わりに将軍継承ができる立場になる
初代公方の基氏と将軍義詮の頃はガチの兄弟で御母堂の繋がりもあるから争い事は殆どなかったが、2代目以降から将軍家に何かと反目や諍いが起きて4代目持氏でいったん断絶までに至る 源氏は身内で争うのがガチ
六波羅探題は幕府とケンカなんかしない >>63
延命には役立ったがあくまで延命どまり
反攻とまではいかなかった 筒井道隆は出てきた頃、筒井康隆の息子だとよく勘違いされてた。
まあ康隆も役者として実績ある人だけど。 >>68
康隆はガラスの仮面では恐ろしく棒だったが… 将軍と鎌倉公方は本人同士というより、有力武家同士の権力闘争に
御輿として担がれてしまう面があったのでね… 調べてみたら、筒井康隆も大河「時宗」に無学祖元役で出てたわ 六波羅探題はその後に執権、連署になる可能性もあるから性質が違う。
赤マフラーの時は騒動になってるし。 頼朝と同じ武衛殿を世襲して鎌倉将軍と同じ鎌倉殿と敬称される
関東に引きこもってると勘違いしちゃう
京将軍は大納言・右大将・室町殿のレベチなのに 室町幕府も仕事が多くてたいへんそうですね 「こんなことになるのだったらもっと南朝の条件をのんでおくのだった」と尊氏は後悔しているであろう >>65
将軍家の血統が絶える気配が全くないなかで関東公方の出る幕なんてまずないのに
周りにおだてられて勝手に色気を見せているだけみたいなもの
康暦の政変や応永の乱のときは言うに及ばず義教の将軍家相続のときだって
義持に存命の弟が何人もいるのに自分に可能性があると思うほうがアレだろ >>70
あれは向こうの文献では「日本国王良懐」じゃなかった?
>>76
尊氏段階で南朝の条件を呑むというのは幕府を自ら否定することと同義
受け入れるのは無理 この時代はまだ東北の奥地にわけわかんない連中が残ってたはずだから、
「征夷大将軍」の「征夷」ってのは一応実質的な意味が伴ってたんだよね? 家康が将軍家、尾張家、紀伊家を鼎立させて水戸家を予備に据えたのは室町殿と鎌倉殿の争いからの反省点だったんだろうな 鎌倉って攻める方が必ず勝つのな
なんでそんな所に幕府を置いたんだ? 攻める奴らが元々鎌倉に住んだ経験が有って弱点を熟知してたとかじゃないか? 親房が言うように青野ケ原で勝った勢いで入京できたかね
青野ケ原自体が勝ったというよりも土岐の奮戦で転進を余儀なくされた感じなのに >>80 いや どうやら坂上田村麻呂の時代にフロンティアはすでに消滅していたらしい 最後の抵抗者アテルイを降伏させたあと和人を移住させて岩手県以北を日本化させた 親房の公の立場と私情で揺れ動く演技が素晴らしかった
筒井道隆の追及に目を潤ませてわかりやすく動揺する尊氏も良かったw >>82
@源氏ゆかりの土地
A三方が高い丘になっていて守りやすい地形
B京の影響を受けにくい離れた東国 >>35
藤夜叉の遺志を尊重して、不知哉丸を武士にしたくなかったのでは? >>86
今の中国政府のチベット政策みたいなことをやったのかね? たった2年間で何度も焼ける寺に不知哉丸を預けた右馬助のミス
そういえば最近見かけない 東北から京(畿内)は遠いでしょ
着いた時点で疲れて多少休んでも
まともに戦えなかった北畠軍 奥州は頼朝の奥州征伐で関東の御家人の代官が移り住んで蝦夷は北海道に追いやられたでしょ >>68
おじいさま、またお金が増えてしまいました! >>93
でも霊山城で佐竹に攻め立てられるより、略奪しながら気ままに西上したほうが荒くれ者たちには楽しかったのでは? >>92
不知哉丸は寺に預けられたのに
食事作法は知らない、髪は長い
おかしくない? >>93
顕家が最近は弓を一割外すとかってのも
精神的、肉体的に疲労がピークアウトしてたんだろうね
顕家の最期は男装の麗人丸出しだった
実は本当に女だった説とかもあるな >>93
このドラマ見てたら行ったり来たりするのが簡単に思えてくるんだよなw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています