【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART44
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【放送】2021年2月14日〜
【主演】吉沢亮
【脚本】大森美香
【制作統括】菓子 浩 福岡利武
【音楽】佐藤直紀
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【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART43
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1621763205/ 次スレ見つからなかったから立てたけどよかったのかな 平岡円四郎 1822年11月20日 - 1864年7月19日
勝海舟 1823年3月12日 - 1899年1月19日
折田要蔵 1825年8月20日- 1897年11月5日
西郷隆盛 1828年1月23日 - 1877年9月24日
尾高惇忠 1830年9月13日 - 1901年1月2日
大久保利通 1830年9月26日 - 1878年5月14日
土方歳三 1835年 - 1869年6月20日
杉浦 譲 1835年11月15日 - 1877年8月22日
井上馨 1836年1月16日 - 1915年9月1日
五代友厚 1836年2月12日 - 1885年9月25日
松平容保 1836年2月15日 - 1893年12月5日
川村恵十郎 1836年8月18日 - 1898年6月13日
榎本武揚 1836年10月5日 - 1908年10月26日
徳川慶喜 1837年10月28日)- 1913年)11月22日
尾高長七郎 1838年 - 1868年12月31日
渋沢喜作 1838年7月30日 - 1912年8月30日
渋沢栄一 1840年3月16日 - 1931年11月11日
伊藤 博文 1841年10月16日 - 1909年10月26日
徳川家茂 1846年7月17日 - 1866年8月29日
渋沢平九郎 1847年12月24日 - 1868年7月12日 >>1おつ
青天大聖孫悟空
栄一はお釈迦様の掌を出て取経の旅に出たあたりだな 地元のツレは天下の志士として縁故採用斡旋するけど、
折田要蔵程度の男については「ありゃあー引き抜くほどのもんじゃない」
とバッサリ切り捨てるドライな栄一なのであった 井伊直弼が、びっちゅう!と言って遮った時
幕閣全員が沈黙してポカーンとなるのは
翔ぶが如くのオマージュ 「平岡は磊落豪放な人で、単に俗務の出来るといふ計りではなく、大人物の趣があつた。私を薩摩へ使にやる時なぞ『ひよつとすると、やられるかも知れないよ。』などと戯言に云はれる。
私は『やられてもいゝぢやありませんかお国の為にならうと思つて働いてゐるのにやられた所がそれは本望といふものです。』と云ふと『それそれ、その気象が好きなんだ』と云つてね。
予々殺される位の事は覚悟してゐられたやうであつた。『人間一遍死ねば二度とは死なん』などと云つてね。」
「そんな荒つぽい中にも薩摩の人たちは、どつかそつ直で親しめるたのもしい所があつたよ、大久保さんは別だがね、大西郷が第一そうだし、三島、河村、中原も面白い男だつたがね」
「薩藩の連中で、常に此処へ遊びに来たのは、今の警視総監の三島通庸、前海軍卿の河村純義、日本鉄道会社々長の奈良原繁、それから中原直助だの、海江田信義、内田正風、高崎五六などの人々であつたが、
其中でも最も多く遊びに来たのは河村と三島で、是両人は藩から附属の様な役で、松屋の隣りに矢張下宿を取つて居た」
「河村と三島とは、兼てから心悪く思つて居た様子であつたが、自分が一橋家から命令があつて、京都へ帰るといふ前晩に、河村と三島が来て、送別の為めに雑魚場の茶屋で酒を飲むから、
一緒にゆけといふから、自分は其趣を折田に話して、許可を受けた上で、雑魚場の料理屋へいつた、そこで三人鼎坐して、飲むだり、歌つたり、何れも熟酔の上、夜の十一時頃、自分は松屋へ帰つて来た」 私が、京都で始めて西郷隆盛に会ふたのは、元治元年二三月の頃であつた。
長州征伐の片がついて、征長総督徳川慶勝から、毛利敬親父子伏罪、防長鎮定の旨を奏上した。何でも、その前後である。
西郷は、当時、相国寺に宿をとつてゐた、下宿ともつかず、自炊ともつかず、寺の厄介になつてゐた。
西郷の名声は、当時早く諸藩の間に隆々たるもので、同藩大久保利通、土佐藩中岡慎太郎、筑前藩早川勇等と共に、長藩再征の不可を主張して居つた。
その為、西郷の一挙手一投足は、天下の成敗に関係してゐたといつても差支へない。
私は、一ツ橋徳川慶喜公の家臣として、西郷を相国寺にたづねた。
私は、一ツ橋の周旋方であつた為、実をいへば西郷の存意を内偵しようといふのが、訪問の目的であつた。
折柄、飯時であつた。
『何にもないが、一緒にやらぬか』
さういふやうなことで、豚鍋をつゝいて、食事を共にした、といふよりも、陪食に与つたといふ方が適切かもしれない。
その時、西郷は云つた。
『此くの如くに、天下が乱れては、上皇室に対し奉りまことに恐多いことである、よつて此際、一ツ橋家を中心として、雄藩会盟の上、
そこで、国策をたてるより外に、今日のところ、収拾の方は厶るまい、一体、足下の御主人だが、一ツ橋公は腰が弱くていかん』
それから私はいつた。
『それなら、西郷さん、あなたが、その中心人物となつては何うでありますか』
『いやそれはいかん、天下の事といふものは、さう簡単にゆくものでない、なかなか難かしいものだ』
そんな訳でその日は別れた。帰つて慶喜公に報告した。
『いかにも、西郷の申すことは、尤もだ』
公も、うなづかれてゐた。
その後、一二度、同じやうな目的で、西郷をたづねた。だが、その中に私は民部公子について、巴里の博覧会へ差遣されてしまつた。 この猪飼正為といふ方は、今なほ丈夫で存生して居られるが、私よりも少しばかり年長な筈である。
この方は一橋家でも武官出身の人で番頭役といふ武官である。
元は御小姓を勤められ、それで武官の方に這入られたものだから、番頭で御側用人をも兼ねられて居つたのであるが、
その息子さんは現に大蔵省に奉職して居られる。
さて、喜作と私とが一橋家に仕へた時に受けた給料は、役手当が四両一分、扶持が四石二人扶持といふものであつたから、
猪飼氏から借りた二十五両を返金するのにも却々骨の折れたもので、毎月一両づつ返したのであるが、
そのうち私は大阪に出張することになつたりなぞし、多少の余裕をも生ずるに至り、その年内に二十五両を皆済してしまつたのである。
私たちが斯く几帳面に借金を返済するのを見、猪飼氏は私たちを堅い人物だというて、非常に賞めてくれたものである。
賞められるだけそれだけ私たちは苦しかつたのだが、自分で市中に買ひ出しに出かけ店頭に下げてある牛の肉を買つて帰り、
之に葱を切つて入れ、一緒に自分たちで、煮て食つたりなぞして当時は其日を送つたものである。
それは兎も角として、当時私たちが自炊ながらも其日を凌げるやうになれたのは、
全く猪飼正為氏が私たちの窮境を憐れんで廿五両を貸して下されたお蔭によることだと思ふので、
私は今日に至るまでこの旧恩を忘れず、同氏の息子さんは大蔵省に奉職して居つても、まだ至つて薄禄のこと故、
御恩返へしのつもりで、及ばずながら彼是れと御力になるやうに致して居る。
猪飼氏の息子さんは大抵毎日曜日に私の宅を訪はれるが、猪飼老人も私が旧恩を忘れず些かでも御尽し申しあげるのを非常に悦ばれて居るさうで、
息子さんの話によれば「おれには渋沢が付いてるから安心だ」と、甚く力んで居られ、
昨年の夏病気に罹られた時なぞ、私から見舞に菓子折を差上げたのだが、
「これは渋沢から己れに呉れたのだから、他の人には決して食はせぬ、己れ一人で食ふ」なぞと言はれて御自分一人で菓子折を大事にして食べられたさうである。
私とても、斯ういふ話を聞けば、又満足を覚えぬでも無い。
単に猪飼氏のみならず、曾つて一橋家に在られた方々に対しては、旧恩を思うて及ばずながら御世話申上げることに致して居る。
平岡円四郎氏は本所の菩提寺に葬られてあるが、一昨年遺族の方々によつて五十年忌の法事が営まれ、
私も之れに招かれたので出席し、本所の御寺へも参つて御墓を拝んで来たが、長男は東京に居住し、次男は信州で裁判官を勤めて居られる。
然し御両人とも少し変人であるので、私の宅を御訪ね下さることなぞは滅多に無いが、
私は平岡氏より受けた旧恩を未だに忘れぬやうに致し思ひ起しては感謝して居る。 円四郎死んだら見る気失せるな
日曜8時は代わりに武蔵か翔ぶでも見るか
とか言っても結局見てしまうんだろうな
明治編は流石に脱落するかも知れんが >>15
私の知らない西郷が登場しそうだ。
なんだかよさそうな人に見える。 >>16
慶長とか享保の頃は、1石≒1両だったらしいけど、
金銀交換比率の内外差異による金の国外流出を防ぐために改鋳された万延小判は
金の含有量が5分の1程度になったらしいから、渋沢の初任給は8石強相当かな。 深谷名物煮ぼうとうって今は肉入れたりするみたいだけど
栄一が食ってた頃は肉なんて入れてなかったんだろうな >>21
現代社会ではいくらくらいなんですか?
>>24
どこかでキャスト発表ありましたか? 西郷さんのセリフの「先が見えすぎる人は非業の死を遂げがち」てのは円四郎
へのメッセージだけでなく、後の龍馬にも通じるものではないでしょうか?!
したがって、この青天を衝けの原作者は龍馬暗殺の首謀者は西郷さん説の傾倒者。 >>25
物価とか平均生活水準とか現代と全然違うから難しいけど、
家賃無料で年収100万〜200万円、みたいな感じかな? 異論は大いに募集w >>27
「未経験者もたくさん働いてる職場です。やる気のある人は正社員(=直参)登用も!」みたいな感じ? しかし才能もあるんだろうが二人の渋沢はついてたよな。農民がいきなり一橋家臣だものな
新選組なんかよりよほどれっきとした武士やんw >>27
初任給とはいえ そんなもんだったのか。良く25両の借金を一年で返せたね。
ほとんど、生活費以外は借金返済で消えたろう。
いきなり、関東出張が認められたけど 出張の旅費はどのくらい貰えるのかな?
あと、人材のスカウトだから、それなりに経費が掛かるよね。
めしや酒をごちそうしたりはするよね。旧知の志士をスカウトする場合でもね。 >>27
かつかつだったようだしそれくらいですかね
家賃無料なら200万以下でも借金返しながらでもなんとか暮らせるかな >>30
かごんまの豚鍋で検索してみな。
当時の日本人はあんまり、豚肉を食べる習慣が無かったようですが
薩摩の京都屋敷では食用に豚も飼っていたんだよね。
かごんまの言葉は難しか?字幕がないと意味が取れないわ。 >>27
寮付き、月収12〜3万ってとこか?
田舎から出て来て未経験で飛び込んで経験を積む足がかりとしてはありな生活だな
馬追いかけてた頃は太ってたらしいけど1ヶ月のお粥生活で痩せたのかな?
というか篤太夫はなぜ薩摩弁がわかるの? >>16
初給料の日に、お盆に紙に包んだお金とその隣に文字の書かれた紙が載っていたけど、
左側のお金が役手当の「四両一分」で、右側の文字の書かれた紙が扶持で「四石二人扶持」
と書かれていたんだな。
栄一たちは、
役手当(役職手当)は年3回支給、年間十二両三分
扶持米は二人扶持(妻がいるとして二人分の米)が年に四石、毎月1/12ずつ支給された。
だから借金二十五両は二人分の役職手当で1年で返すことができたんだな。妻の分の米代で
野菜や牛肉が買える。
ここまで理解するのにあちこちのwikを見たりして苦労したんだが、果たして正しいかどうか。 惇忠は長七郎の様子を見に行った報告するときに一緒に投獄された中村さんのことにもちっとは触れてほしかったなー
何もしていないのに投獄され獄死してしまった中村さん…
このドラマでは罰せられたのは長七郎だけということになってるんならそれはそれでいいけど >>34
血洗島の道場には薩摩や色んな藩から集まってきてたっぽいこと栄一言ってた >>35
ガイド本だと四石二人扶持の注に「2人分の1年間の俸禄として米4石を支給すること」とあったから、喜作と栄一二人で4石ってことかと思ってた 次回は円四郎暗殺か
斉昭と東湖と同じ運命を辿るのだな
慶喜と円四郎も 人を豚肉のように斬れる幕末の薩摩っぽが豚さんに残飯あげて可愛がっていたかと思うと萌える 斉昭と東湖は事の顛末を見届けられずに死ねて幸せだったろう。 >>43
逆に言えば斉昭と東湖が生きていれば水戸は
ああならなかったのでは
少なくとも東湖の息子が決起することはなかった >>44
グルを失ったカルトの末路ですなあ( ^ω^) 我々は正義を為しているのだから略奪も許されるなんて考え方が甘えと気付かない時点でなあ…
東湖先生は一体なにを教えていたのか?ということになる。
まあその種の思い上がりは頭山満の玄洋社も引き継ぐんですがね。 >>31
入用金で十両、小遣金で十両(こっちは円四郎かららしい)貰ってるw栄一も大阪出張で楽になったと言っているよ >>47
西郷とつついた鍋がすき焼き鍋風で、あれって思ったよ。
このころまだすき焼き鍋ないだろって。 〇平岡円四郎の外に、私の知つてる人々のうちでは、藤田東湖の子の藤田小四郎といふのが一を聞いて十を知るとは斯る人のことであらうかと、
私をして思はしめたほどに、他人に問はれぬうちから前途へ前途へと話を運んでゆく人であつた。
…(中略)…私は之を聞いて廿二歳にしては実に能く気の付く賢い人だと思つたのである。
〇東湖の四男藤田小四郎には前条にも申して置いたやうに、私も親しく遇つたこともあるが、
非凡の智慧者で、珍らしい人材であつた。
〇藤田小四郎は耕雲斎が頭目であつた正党に入つて兵を挙ぐるのを是れ即ち義であると信じたものだから、
生を捨て強ひて耕雲斎の仲間に党し、遂に斬首に処せられたのである。
この点から観れば小四郎はまさしく義を見て為さざるは勇無きなり、との意気があつた人と思はれる。 >私をして思はしめたほどに
自信家の栄一さん( ^ω^) >>14
三島と川村という後に出世したのがおもしろい
また西南戦争の司令官クラスでもあるね
やはり若い時から人物だったんだろな >>53
長州はめぼしい人材が禁門の変で消えたからか
幕末は小物だった人が明治になって出世してるな 武田耕雲斎の家族
武田延子 耕雲斎の妻。人見姓。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年40。靖国神社合祀
武田彦衛門 耕雲斎の長男。水戸藩士。500石。書院番頭。諱は正勝。武田金次郎の父。
元治元年(1864年)、小川勢を率い転戦し、10月、自首した榊原新左衛門と離れて西上し、慶応元年(1865年)2月4日、越前国敦賀で斬首となる。
贈従四位。享年44。敦賀松原と水戸に墓、また靖国神社合祀
武田幾子 彦衛門の妻。藤田東湖の妹。藤田氏。慶応元年(1865年)9月24日、水戸獄中で絶食して死す。享年43。靖国神社合祀
武田孫三郎 彦衛門三男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀
武田金四郎 慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀
武田とし 彦衛門の娘。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年11。靖国神社合祀
武田熊五郎 彦衛門の五男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀
武田魁介 耕雲斎次男。諱は正義。弘化(1844年〜1847年)以来国事に尽し、元治元年(1864年)、大挙して江戸に赴き、8月、那珂湊にて合戦、
そのまま西上し、慶応元年(1865年)2月4日、越前国敦賀で捕らわれ斬首となる。贈従四位。靖国神社合祀
武田桃丸 耕雲斎の六男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年9。靖国神社合祀
武田金吾 耕雲斎の七男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年3。靖国神社合祀
阿久津梅 耕雲斎の妾。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀
古河ミネ 耕雲斎の外妾・カヨとの間に生まれた娘。大久保利通暗殺犯である島田一郎の妻となる。その後、生活の困窮などから窃盗や詐欺を働き逮捕された。
武田金次郎 嘉永元年8月10日(1848年9月7日) - 明治28年(1895年)3月28日)は、幕末期の志士。水戸藩藩士・武田耕雲斎の孫。母は藤田東湖の妹。名は?。
1848年、水戸藩士・武田彦衛門の子として生まれる。
1864年の天狗党の乱には、祖父や父と共に参加する。のちに乱が鎮圧されて祖父など376人が死罪に処せられたが、若年を理由に遠島処分となる。
1866年、金次郎ら110名は小浜藩に預けられ、佐柿(福井県美浜町)の屋敷に収容されて謹慎したものの、准藩士格として厚遇される。
1868年、王政復古によって朝廷から罪を許され、水戸への帰藩を命ぜられた。
帰藩した金次郎らは、朝廷の威光により藩の実権を掌握。通称「さいみ党」と呼ばれた金次郎らは、仇敵であった諸生党残党に復讐をすべく、
白昼堂々に襲撃・暗殺し、藩内を極度の混乱状態に陥れた。
版籍奉還後は藩の権大参事を務めたものの、廃藩置県後は経済的に窮迫し、やがて病に倒れる。1895年、病死。享年48。
晩年の金次郎の詳細な状況を示す史料が見つかり、茨城県立歴史館研究員により2018年3月に報告されている。
水戸藩出身の志士で、明治維新後、政府の要職を歴任した香川敬三が知人にあてた手紙(1894年(明治27年)12月23日付)に金次郎の貧窮した状況が記されている。
香川が栃木県の塩原温泉を訪れたとき、物乞い同然のみすぼらしい小屋で暮らす、体の不自由な金次郎と出会った。
驚き哀れに思い、香川が金銭を渡すと、金次郎は喜び、ひれ伏したという。このあと、金次郎は水戸に戻され、3か月後に亡くなった。
1907年、正五位を追贈された。 ググったところ江戸時代になると長屋という住宅事情で『小鍋立て』というのが普及して鍋専門店も出てきたらしい
あの豚鍋おいしそうだった
渋沢ズの料理が上達してるのを描いてるけど料理はほっこりするね次は豆腐汁か菜の汁くるか 古河ミネと武田金次郎が悲惨すぎる。貧窮に陥れば優秀な遺伝子も名族のプライドも糞もないってこった 武田金次郎は一説によれば、晩年は伊香保温泉で風呂番をしていたと伝えられる。 とのこと
そういえばアタリメ盗んで捕まった全共闘世代の闘士が居たな。 ドラマでもやってたが、最初に篤太夫を気に入ったのは同世代の川村さんなんだな
川村さんの紹介で平岡さんや黒川さんとも知り合いになった
川村さんは明治以降も大蔵官僚などで活躍した
息子の川村花菱は戦前のトーキー時代を代表する劇作家・脚本家になった
母三人、乳姉妹の原作者 金色夜叉の脚本など >>61
豚一サマと呼ばれていたのは有名
そういうシーンも出さないとな しかし45分があっという間に終わってしまった
さくさく見やすく面白いわ >>57
金次郎(16)は若年を理由に遠島処分ということだけど、3・9・11歳が斬首されてるのになぜ?
と思ったら斬首されたのは若年と言っても耕雲斎の息子で、
金次郎は孫だからか…3歳の息子何もしてなかろうに >>67
栄一は決起前に家と縁切りしてからにしたのに >>49
鹿児島の明治維新の記念館で西郷と大久保の遺品を見ると、
なんとなく人物像がイメージできる
西郷さんの軍服は横にも縦にも大きくて、当時では遠目でも目立ったと思う
生まれながらのリーダータイプだ
大久保さんの洗面道具なんかはハイカラで趣味がいい
久光より斉彬のタイプなのに運命がねじれちゃったんだな >>67
何もしてなくても息子と言うだけで罪がある
悪い芽を摘むのも当然のこと
ゴキブリ退治する時は卵まで処分するだろ 天狗党調べたら幕府追討軍の総大将が田沼意次みたいな名前だな
子孫いたのか >>66
御三卿の一つ田安家は吉宗の次男が始祖
慶喜の一橋家は吉宗の四男が始祖 >>71
それを言うなら祖父や親を殺されてる16歳が許されたのが不思議だなということ
16歳ならバリバリ実動部隊だろうに >>73
少し前にジェームスの息子と宍戸錠の息子が演じてた。 とっくに入れ替わって田安は一橋系の家斉の弟の子孫一橋は先代の死後水戸から慶喜 >>70
大久保は殖産興業頑張ってたから
その辺りも薩摩の製品を育てようとしてた斉彬と似てるね 第二次長州征討で幕府軍が全面的に総崩れになる中唯一踏ん張っていたのが紀州が受け持っていたところというイメージ >>78
久光はお兄ちゃん大好きっ子だからな
大久保が集めた若い志士連中に斉彬の遺志を皆で引き継ごうって手紙出して手なづけてるし 猪飼様は長生きすると知って、ホッとしたw
昔から一橋に仕えてる家系て言ってたが、紀州から吉宗に
付いてきた家系かな?
>>72
大名としてはぎりぎりで残ってるよ。
相当、石高は減らされてるが・・・ >>69
父の斉昭が本を書く位美食家だったので、幼い頃から食べていた可能性は高いと思うな
薩摩は斉昭にも肉を献上してたはず このペースだとたぶん明治中期あたりまでで終わりだよね
畳の上で亡くなる91歳までは放送しないかな >>86
生き延びても辛かったろうに
まだ予告だが浪岡はいい演技してる
川村の表情が円四郎暗殺の悲劇を物語ってる >>87
城山三郎の雄気堂々は千代が亡くなる40代までで終わっている
そこまで書けば、渋沢栄一伝としては十分だけどな >>84
>猪飼氏の息子さんは大抵毎日曜日に私の宅を訪はれるが、猪飼老人も私が旧恩を忘れず些かでも御尽し申しあげるのを非常に悦ばれて居るさうで、
>息子さんの話によれば「おれには渋沢が付いてるから安心だ」と、甚く力んで居られ、
>
>昨年の夏病気に罹られた時なぞ、私から見舞に菓子折を差上げたのだが、
>「これは渋沢から己れに呉れたのだから、他の人には決して食はせぬ、己れ一人で食ふ」なぞと言はれて御自分一人で菓子折を大事にして食べられたさうである。
>
>私とても、斯ういふ話を聞けば、又満足を覚えぬでも無い。
愛されキャラは得だね。動乱のまっただ中に居たのに飄々と生き残って、息子さんも大蔵省のエリート。 >>76
慶喜の後の一橋家当主は高須4兄弟の1人茂栄 尾張.会津.桑名一橋 幕末の徳川(松平)は高須4兄弟無しには語れない 先日まで東京メトロがしぶさわくんスタンプラリーしてたが東京地下鉄は無理か
大正時代のファッションや街並み好きなんだけどな
明日の歴史探偵で栄一inパリ万博やるねBSでやった映像使いまわしっぽい 大蔵省の上司からも、毎週渋沢のご機嫌伺いに行くよう指示出されてたんだろうな猪飼の息子さん
ところでこんなの見つけた↓円四郎の二人の息子というのは一体なんだろう?( ^ω^)
平岡一矩
2021年 5月 18日
平岡円四郎の子孫で5代目玄孫です。記事は、全くの出鱈目です。
円四郎には、娘が二人、当家は二女の直系です。澁澤家とは、現在も付き合いが継続しております。
二女は、1881年に死去、上野池之端にある、正慶寺に円四郎が建立した墓があります。
勿論両親もすぐ側の墓に入っております。過去帳が消失してない限り経緯がわかるかと思います。
二女のお位牌以降の先祖の位牌は、長男である私が預かっております。
父の50回忌も過ぎ、母も15回忌を過ぎました。円四郎の姉の子孫は、父の頃に甲府へ引っ越しされたと聞いております。
付き合いはありません。
父は、大学生の頃、渋沢栄一の書生をしておりました。私どもの結婚式には、栄一の孫娘夫婦が列席されています。
平岡家は、かなり前から、女系で、婿養子だったそうで、父の代でようやく男子が誕生です。
https://reki-historia.com/2021/03/30/ensiro-wife/ >>57
天狗党の顛末はひどすぎるな
栄一みたいに勘当されたことにしてから決起したなら一族は助かったのかな >>93
自分大好きな人ではあるけど、官尊民卑を嫌っているのは生涯一貫しているな
大蔵大臣就任も固辞したし >>93
それは違うと思うわ。星野1001ならともかく
栄一は座に居る者すべてが感情激しているときにも冷静に脳内のソロバンを叩いているタイプではないだろうか。 >>38
ありがとなし
は船橋方面の方言かな
血洗島方面でも使ってる? >>89
吉沢起用してる時点でジジイまでは描くつもり無いだろ
後日談みたいになるんじゃない?
それかいだてんみたいに元気なジジイで終了みたいな >>98
ありがとなしってふなっしー以外にも船橋の人は使ってるの? >>98
ありがとなしは会津じゃない?
ここで会津の人だと言われてるのみたけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています