【1991年 大河ドラマ】太平記part.60
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>>83
>>92
今谷さんって一時期凄い花火を打ち上げて日本史学界に強烈な印象を残したけど
その後は悉く否定されてしまい残念な印象になってしまったイメージ
義満の帝位簒奪意図説とか明応の政変後の京兆家専制説とか >>92
義詮は観応の擾乱の地獄絵図を見せられて尊氏のやり方を踏襲しようとは微塵も思わないわなw それに付け加えていえば義詮って恐らくあんまり他人を信用していない印象があるかな
だからこそ将軍への権力一元化に拘ったような雰囲気も感じる 室町幕府将軍の権力一元化はできたのに
東京の地下鉄一元化は未だにできない不思議 >>103
親父に付いていてあれだけ裏切りを体験してきたからな
信じていた佐々木道誉にも再度寝返りされるし
でも朝廷の集り段銭を拒否したり
倭寇鎮圧で朝廷に相談に来た高麗との独自交渉して朝廷の無能さを暴露したり
朝廷の弱体化に尽くしてきたから有能な将軍でしょ まあ朝廷弱体化の最大の元凶は南北朝の動乱を招いた後醍醐だけどね 公家たちは後醍醐の気まぐれに振り回されて右往左往していたのでは? >>110
風体が?
風体でいうと四代義持がなかなか。
髭の生やし方っ!!って突っ込みたい。 等持院の歴代将軍の木像は義満と義持が入れ替わってる
可能性があるとして、その木像でも義持のもみ上げからのヒゲは
すごい。ぜひ大河で再現してほしい。 ttps://www.bs11.jp/program/sp/?p=441091&s=0x00D3&e=6677&ed=20220418 京都浪漫 悠久の物語【嵐山から吉野へ 桜舞う天龍寺、金峯山寺、吉水神社】
2022年4月25日(月) 20:00 - 20:58
番組概要
桜舞う後醍醐天皇ゆかりの地で稀代の帝王の生涯を紐解く。天皇の菩提を弔う天龍寺、元弘の変の舞台、笠置山の笠置寺、南朝を開いた吉野山の金峯山寺や吉水神社を訪ねる。 >>106
義詮が朝廷の弱体化を目的として意図的に行った政策って何かあるの? 鑁阿寺の15将軍木像座像の尊氏は険しい顔
義持はもみあげなし
等持院とかなり違うのが面白い 室町時代の足利将軍家って鑁阿寺との交流あったのかな? >>120
重要文化財の鑁阿寺文書などなど
尊氏から義満や義政などなどの寄進状や
寄進した香炉や刀剣など沢山あるね
あと将軍家と敵対していた代々鎌倉公方の
寄進状などなども沢山あるよ 今週の逃げ上手に坊門さんの名前があって、謎の感動を覚えた その絵巻ぞ
劇中で時行が色々あって大楠公の戦術書(の下書き)を手に入れるのだが
どうやら後醍醐帝に献上した清書の編集に坊門さんが携わってたらしく、締切やばい逃げたい門まで来てる、とw >>126
正体を知らないまま気質的に意気投合して自邸に招き、次に会ったら敵って感じ >>128
上総介事件の前後は幕府の黒歴史らしく記載がない
上洛派と坂東割拠派の路線対立はあったらしい >>129
頼朝の親戚で義兄弟で時子を正室にした足利義兼は
当然、頼朝方だろ
上総介謀殺後には領地丸ごと足利が貰った 時子の死に方が酷すぎて実家の北条から嫌われたんだよ
因縁の始まり >>132
上総広常の領地が丸ごと足利に渡ったというのは本当?
細かい地頭職とかは調べてみないと分からないけど
取り敢えず上総の守護職は千葉常胤に引き継がれているよね?
上総守護が千葉氏から足利氏に交代するのは宝治合戦後だったはず 常胤の孫で三浦と関係の深い秀胤が宝治合戦で三浦と一緒に滅んだ結果
後任の上総守護に足利義氏が就任する流れだったな 千葉氏境常秀から足利義兼〜足利義氏へと引き継がれている >>141
鎌倉時代の上総は関東知行国(知行国主が鎌倉殿)だから
源氏一門の義兼が上総介になったのだろう
ちなみに上総介の官途名は鎌倉後半期だと吉良氏、南北朝期以降は今川氏が受け継いでいるイメージだな 上総介で一番有名なのは信長じゃない?
吉良は上野介のイメージ よく言われることだけど織田信長が上総介を名乗ったのは恐らく今川への対抗心からだな
上総介は室町期の今川宗家の当主が元服時に名乗る官名
織田信秀も今川義元と三河守の肩書きをめぐって争ったりしている
吉良上野介(義央)は江戸時代の人物なのでこのスレ的にはどうでもいい というか上総守護とか上総介とかの地位について
上総一国を丸ごと領地として支配する立場だと思っている人がいるのかな? >>149
北条時政も一般的には遠江守の受領名で知られるけど
時政の遠江守任官は安田義定の滅亡後かな 上総は義兼から歴代足利宗家に受け継がれ
室町から足利庶流に引き継がれた 上総といえば佐々木道譽は妙法院焼き討ちの件で上総に流罪を命ぜられた際に
なぜか同時に室町幕府から上総守護に任命されているのだよな
まあ上総国には元々鎌倉時代から佐々木京極氏の所領(武射荘など)があったらしいから
流罪といっても実際には道譽は上総にある自分の領地に滞在していただけなのだろうな 京から遠く離すことで院の報復から一時的に保護する的な 今BSで光厳院の隠居の地が放送されてるけど吉野ばりの田舎なんだな 道譽の生き様は奇跡
行き当たりばったりの天然か天才策士か分からん
大河でやるべき >>152
朝廷の官途としての上総介なら鎌倉後半期の段階で足利宗家から吉良氏に移っている
幕府の役職としての上総守護なら足利氏の就任は宝治合戦以降で義兼は就任していない >>155
晩年の光厳は京都のゴタゴタにかなりウンザリしていたらしいし
あえてそういうところが良かったのかもな 現在の京都御所(土御門東洞院殿)に里内裏が固定化され
ここが唯一の内裏になるのも確か光厳からなんだよな >>158
ゴタゴタの原因はアンタでもあるんだけどねw 光厳が原因のゴタゴタって花園の皇子とされる直仁親王が実は光厳の隠し子だった件とか? 晩年のゴタゴタは皇統を崇光流に戻せと言い出したことだろ
けど幕府がこれからは後光厳系を推していきまーすってことじゃね? 変なことばっかやってるから歴代天皇から外されるんだよ光厳はw >>162
そこは光厳のいうことにも理がないわけではないけれども
義満生母と後円融生母が実の姉妹であるという事実がある以上
幕府が後光厳系を推すのはある意味仕方ないからなぁ
>>163
光厳を歴代天皇から除外したのは近代のイデオロギー的な南朝正統論によるものであり
これに関して光厳には何の責任もないでしょう 光厳から見たら崇光も後光厳も自分の子どもだしいいんじゃないの。ようは治天の君が重要ってことでしょ。オカンと息子に治天を取られて俗世を捨てたのよ >>165
光厳ってこのドラマの登場人物なんだが
何を寝ぼけているんだ?
>>166
広義門院の治天に関しては多分に名目的なものだし
後光厳の後円融への譲位は光厳の死後だよ 江戸時代の青綺門院は広義門院の先例を意識していたらしい >>167
ドラマ板なのだからドラマの話をしろ
日本史板で都合が悪い理由でもあるのか? >>167
広義門院なんてドラマに出てこないだろ
何を痴呆ボケまくっているんだ? 広義門院は本当は正平の一統の絡みで出てくるはずだったけど
終盤が押してきて正平の一統自体スルーで観応の擾乱の描写を簡略化してしまったため
結局出番なしになってしまったというような話も聞くよな
まあ広義門院に関しては結果的にドラマに出てこなかったけど
完全にドラマと同時代の人物でドラマに出てきたとしても全く不思議ではなかったわけで
こういう人物に関する話題に触れることさえ執拗に規制するというのは
本気で言っているのなら正直あまりにも了見が狭すぎるし神経質すぎると思う それはたまに脱線する人が言うセリフで年中脱線している人が言うのは筋違いだよ 後伏見は建武3年崩だから観応の擾乱(正平の一統)の段階ではとっくに故人だよ
後伏見の后であった広義門院は活躍しているけどさ まぁ後伏見が健在なら
尊氏が光明を天皇に擁立した際も
後伏見が北朝の治天になるよな
そういえば広義門院(西園寺寧子)って
中先代の乱のときに新田義貞に殺された
西園寺公宗の叔母なんだよな
公宗というとドラマのなかでは
持明院統の重鎮であって
尊氏に冷たく接する嫌味な公家
というイメージがあるけど
実は年齢的には尊氏と大差ないみたいね 女院号に関していえば阿野廉子は新待賢門院を宣下されているけど
実は新待賢門院という女院号を持つ人物ってもう一人いるんだよな
具体的には江戸後期の人物で孝明天皇生母の正親町雅子がそれに当たる
無論当時の朝廷は北朝正統の立場だから阿野廉子の存在を敢えて無視したのであろうが
すでに尊王論が社会的に台頭しつつある幕末に近い時期で
尊王論とともに建武の新政などをポジティブに捉え直すような見方も広まっているなかで
阿野廉子を完全無視っていうのもなかなか思いきったことをしたように思える >>174
広義門院を知らなくてもこのドラマを視聴するにはまったく関係ない
ましらの石が実在の人物だと考えてもまったく問題ない
おまえの独善はどうでもいい >>177
西園寺公宗は殺されたとき26歳
後醍醐天皇の中宮・西園寺禧子と血縁なので鎌倉幕府滅亡後も官位を復された
広義門院はともかく西園寺禧子は吉川英治の原作私本太平記にも
古典太平記にも出てくるから大河でも出すべきだったと思う 西園寺公宗の叔母は本当は新田の絡みで出てくるはずだったけど
終盤が押してきて簡略化してしまったため
結局出番なしになってしまったというような話も聞くよな
まあ西園寺公宗の叔母に関しては結果的にドラマに出てこなかったけど
ドラマと同時代の人物でドラマに出てきたとしても全く不思議ではなかったわけで 長谷川初範だったか。後醍醐が隠岐に流されて有頂天だった奴は 10年以上前からあるサイトなので太平記ヲタなら知っている人も多いと思うけど
大河「太平記」の続編をつくると称して細川頼之が主人公の「室町太平記」なるものを
勝手に妄想しているサイトがあるよな
あのサイトの作者がその妄想大河の冒頭を正平の一統から始めているのも
大河「太平記」では駆け足ぎみに終わってしまった観応の擾乱について
もっとまともに描いたドラマがみたいという思いからなのだろうな >>182
でも結局西園寺家の全盛期は鎌倉幕府の滅亡とともに終わりだからなぁ
やがて義満の時代になると先祖伝来の地である北山も義満に召し上げられるし
その後はそれこそ近代に首相になる公望まで西園寺家歴代って大した人物がいない そういえば西園寺公望は
後醍醐の暗殺を謀った西園寺公宗の末裔ということで右翼には随分攻撃されたらしいな >>184
近代まで家が残ってることが凄いじゃん、それに首相まで出して >>185
新選組に命狙われたり、大村益次郎暗殺偶然回避できたり
狂乱のパリコミューンに出くわしたり
長生きしてるのが不思議な人 権中納言で総理大臣、昭和まで生きた公卿、藤原公望。 >>187
二・二六もなかなか危なかった
しれっと生き残るのが公家という生き物か しかし北畠親房を始めとする南朝の重鎮たちからすると
正平の一統で北朝再建の芽を徹底的に摘んだはずだったのに
広義門院が出てきて治天として後光厳を即位させたのを見たときは
正直どんな気分だったのだろうか? >>191
南朝方は京から撤退する際に弥仁親王(のちの後光厳天皇)も拉致していくつもりだったけれど、
発見に手間取り、時間切れになってしまい、やむを得ず京に残してきた経緯があるので、
いずれ何らかの形で弥仁親王が担ぎ出される可能性は認識していたはず。
だから後光厳の即位にもそれほど驚きはしなかったと思うけれど、あと一歩のところで
北朝の皇統壊滅に失敗した悔しさはあっただろうね。 広義門院の治天擁立は
二条良基の発案なんだろうな
良基は三種の神器なしでの後光厳の即位にも
「尊氏が剣となり良基が璽となる。何ぞ不可ならん。」
と言ってのけるような人物だし
単純に親房より役者が上だったということ
ちなみにドラマで師直に囲われていた二条の君は二条良基の叔母なので
美少年として有名な高師夏は良基の従兄弟に当たる >>192
後光厳って正平の一統のときは美濃に逃れていたのだっけ? 太平記の時代の歴史は詰まるところ
すべて狐と狸の化かし合いみたいなもの
後醍醐による建武の新政だって
元々武士たちは北条を倒す戦い
という意識だったはずなのに
幕府そのものの否定=公家一統というふうに
論理のすり替えをやった結果だし >>193
二条家は初代良実が父親の九条道家と折り合い悪くて
あまり所領の分与などを受けられなかったということもあって
鎌倉時代だと五摂家のなかで最も弱小なイメージがあるが
南北朝時代に二条良基が北朝の重鎮として怪物ぶりを発揮した結果
その後やたら有力になった感じだな 鎌倉殿では存在感のある三浦も安達も
太平記の時代には北条にやられた後
っていうのがなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています