【第二十八回】太平記 part.28『公家か武家か』 [無断転載禁止]©2ch.net
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二十八回 【開戦前夜】
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki28.html
前スレ
【第二十七回】太平記 part.27『公家か武家か』
http://nhk.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1463725409/ >>101
それをいうなら、豊臣政権滅亡後も秀吉からの偏諱を捨てなかった人物には、
徳川秀忠・伊達秀宗・毛利秀就とかがいる。 実名は本人にとって霊的な意味を持った忌み名であり、一字拝領は主従関係の重要な表現法だったわけで
となれば改名あるいは改名しないことに、何らかの心情的あるいは政治的な意味はありうるだろうね 古河公方の足利成氏なんて、室町幕府に対して30年近く反抗し続けたのに、
将軍義政(初名:義成)から賜った偏諱を最後まで捨てないね。 前スレでもあったけど
「朕に背いたからは、尊の字をめしあげる」とか
陰陽道的に?「足利穢氏と名付ける」
なんてのはなかったのか 足利家執事の高氏や上杉氏は公家出身らしいし
足利体制では、公家階級が将軍に仕えてたともきくし
「武士」と「公家」との違いって
公家階級が騒ぐほど垣根がないのかな
ドラマの師直は公家装束似合わなそうたが 上杉はもっと出してくれてもよかったのに〜
そういやこのドラマ初見のときはマジで知識なかったから尊氏のかーちゃんの上杉って上杉謙信の上杉かあ!と
妙に興奮した記憶があるw >>87
そうですか、気分を害したんだったら、謝りまず。美濃での戦いは、青野原の戦いですね。北畠顕家と、土岐頼遠の戦いです。 >>106
そういえば源義経なんかは、お尋ね者になった後、当人の知らないところで、
勝手に「義行」に改名させられているな。
まあこれは当時の朝廷の実力者九条兼実の嫡子良経と同訓なのが怪しからんってことらしいが。
>>107
高氏が公家というのは聞いたことがないような・・・。
高氏(本姓:高階氏)って、義家の頃からの源氏の家人ではないの?
上杉氏に関しては、勧修寺流の家系らしいが、官位からして、
堂上公家というより地下官人じゃないかな? >>111
青野原の戦いは、「顕家散る」の回でさりげなく触れられているよ。
時期的にも「大逆転」の回ではなく「顕家散る」の回で妥当。 足利殿!御正室がヨリを戻して欲しいと申されておりますぞ!ブハハハッ >>107
一般的に「公家」というと、堂上公家(上級貴族)の意味になると思うが、
これは朝廷に仕える官人で、公卿(三位以上)まで昇れることを代々保証されている家で、
なおかつ武門ではない家ということになる。
もっとも武門で代々公卿まで昇れるような家というのは、
室町期の将軍家と鎌倉公方(関東公方)家の当主、江戸期の将軍家と御三家の当主くらいだが。
また朝廷に仕えているが公卿までは昇らない者を地下官人というが、
地下官人のうち四位・五位までは昇る家は、中下級貴族といわれることもある。
武家でいうと、室町期の守護大名や江戸期の近世大名の多くも四位・五位レベル。 >>109
上杉能憲は師直兄弟・一族を抹殺したのに良くぞ生き延びたな >>117
彼そもそも流罪になったはずなのになんで普通に帰ってきてるのだろうw
判官殿もそうだったがあの時代の流罪はただの旅行宣言なのか? >>117
上杉能憲は後に関東管領までなっているな。
まあ能憲の実父が上杉憲顕ってことも大きかったように思う。 手塚理美って久々に聴いたわ
調べたら今吉本に居るのかw 新田義貞の鎌倉攻めで鎌倉が陥落した元弘3年5月22日は、太陽暦に直すと、
グレゴリウス暦で7月12日、ユリウス暦で7月4日になるらしい。
ちょうど今くらいの梅雨時のジメジメした日だったのだろう。 手塚理美って、大河はいずれも現代劇の『山河燃ゆ』と『いのち』しか出演していないのね。 >>118
まあやはり上杉氏は、初期の頃の足利将軍家の外戚としての地位があるからね。
室町期の守護大名家のなかで、嫡流以外に庶流にも守護職を持つような家が多数あるのは、
正直いって細川氏・山名氏・上杉氏くらいだろう。 本家がどこかわからなくなりつつあった武田とか
甲州 若狭 安芸 >>128
NHKのファミリーヒストリーで、武田鉄矢さんの先祖は、武田菱の家紋だと、放送していたと思う。 ドラマの時代はやっぱ武田より御内人だった諏訪の方が力あったのかね
諏訪が時行をかつい鎌倉に攻め込んだお陰で護良親王が・・・>< >>128
確かに武田もあるか。
ただ武田はどこが本家か微妙な上に、どこも守護としては不安定というイメージもw
甲斐:
南北朝初期に政義が南朝方について更迭され、安芸出身の信武が甲斐守護職も接収。
1416年、信武の孫信満が上杉禅秀の乱に連座して家門断絶。
約20年後、信満の子信重が将軍義教に取り立てられ甲斐守護に復帰。
しかしその後も信虎の代に戦国大名化するまでは完全な弱小守護。
安芸:
南北朝前半期は武田氏(信武・氏信)が守護だが、1370年に今川了俊に守護職を奪われる。
その後は了俊の失脚後も武田氏に守護が戻ることはないまま、戦国期に至り滅亡。
若狭:
1440年、安芸武田氏の一族信栄が一色義貫・土岐持頼謀殺の功により、若狭守護職獲得。
しかし信栄は若狭入国前に暗殺され、実際に若狭守護として入国するのは、弟信賢。
その後、戦国期まで守護の地位を維持するが、京都に近いため、京都情勢に振り回され続ける。
上総:
享徳の乱の際に、甲斐武田氏の一族信長が古河公方成氏の命で、上総を接収。
成氏は信長を上総守護として扱ったが、幕府から正式に守護に任命されたかは不明。
その後、信長の子孫は真理谷と庁南の2家に分裂して弱体化。 >>129
蠣崎氏が武田一族というのは、真偽不明の微妙な話だと思うよ。
津軽海峡の対岸に勢力を持つ南部氏が、
やはり武田一族を名乗っていることへの対抗から出てきた話のような気もしないでもない。 このスレで赤くなる程長文で書くって.......
日本史スレとか行きなよ。wiki丸写しだと恥書くぞw >>133
それどころか蠣崎のもとはアイヌ人が化けてるという説が「蝦夷地別件」という小説で >>134
wikiなんてものは最初から基本的に信用していないし、そんなもの引用する気もない。
特に武田氏に関しては研究者の論考も結構あるから、情報を仕入れるのも割りと容易いし、
書いてあることが本当かどうか分からんwikiなんぞに頼る必要性は全くないからね。
もっとも、このスレに出入りするくらい太平記や室町時代に関心のある人なら、
すべて当たり前に知っている初歩レベルの内容だったような気もするので、そこは失礼した。
今後はもっと真新しい面白い説をいろいろ掘り起こしてくるとしようw >>136
まあ自分は、さすがにそこまではどうかと思うけどね。
若狭武田氏の流れという話の真偽はともかく、蠣崎氏は一応、渡党ではあるんじゃないかと。 >>106
「足利穢氏」って、和気清麻呂が「穢麻呂」に改名させられたみいなイメージかw
まああれは少々やり過ぎだろう。
ただ南朝は、南北朝分裂後に北朝が与えた官位なんかは、基本的に認めない立場だよな。
正平の一統前後の講和交渉の際に、南朝が尊氏や直義に出した文書の宛先は、
尊氏や直義の南北朝分裂前の官途名で書かれているし。 >>977
自分が理解できないからスレ違い認定かw
別にスレ違いでもないでもないぞ。 誤植?
というか前スレからのコピペか。
まあ前スレには実際、スレ違いでも何でもないものを、
スレ違いであると強弁して排除しようとする痛い奴がいたなw 三河ネタで粘着していた奴もそうだが
そろそろウザがられ始めてもしょうがない段階なんだから
もう少し自重して欲しい気になってきてる連中も少なからず出てきてるって事だろ
毎日の様にID真っ赤にして来られちゃ流石にこれはと傍から見てるとそう思える >>137
お前は、日本史スレへ逝けと言われてんだよ >>140
ロングパスに期待。
>>141
明らかに太平記に画かれてない事や尊氏の時代じゃ無いのは歴史板でいいでしょ。
自分も長文連投で大河ドラマ板でわざわざご教授頂きたいと思わん。
あんたは「教えてやってる」つもりかも知れんが、何度も不満が書かれる意味くらい気がつけよ。
お利口さんなんだろ? シジツハナスナーは三河屋さんと同じぐらい古参の厨房
相手にするんじゃない >>144
ごめん、俺はお利口でも何でもない単なる太平記ヲタだから。
ただ太平記が物凄く好きで、太平記スレの活性化のために、いろんなネタを投下はしているが。
というか不満とやらを言っている奴って、実際は太平記スレが活性化するのを嫌って、
スレを潰すために敢えて水を差すレスをしている魂胆が見え見えでイヤらしいんだよなw
太平記に対して、興味も関心も情熱もない奴が、なぜこのスレにいるのか不思議だわ。
そういえば昔、その不満とやらを言う危痴害が「太平記避難所」なる重複スレを立てていたが、
わざわざ立てたあのスレもいつのまにか放棄したみたいで、やっていることが支離滅裂だな >>145
すまん。話すなー厨の相手をしてしまった・・・。 ドラマの再放送やってないし
複雑怪奇な時代のだから
スレの流れが
歴史談義になりやすいんだよなあ
史学論な方にいきすぎないならば面白いと思うけど もう大昔の大河なんだから、ドラマの登場人物や事件が絡んでるなら歴史談義でもいいよ、別に
というか、歴史談義じゃなくて、ドラマ本体のみに関してみんながレスしたくなるような書き込みがあれば
自然にそっちで盛り上がるって。ネタの応酬になるかもしれんけどw >>146
じゃあそんくらい太平記が好きなら、ドラマ太平記の話すればいいじゃん?事実ガーとか言っても所詮史実。時代と共に解釈も変わってく。
25年も前のドラマの新しい話は難しいかも知れんが、「あの頃登子達は何してた?」とか「高時の本心は」とか「義貞は勇将か愚将か」とか(あくまでもドラマ内で)
ドラマに詳しいなら語れそうじゃん。そういう話ならリアルタイムじゃないDVD世代も観直しながら「なるほどー」って思えるよ。 >>150
自分はすべてドラマに関連すると思って言っている。
まあ尺度の違いかも知れんがね。
ただ自分は歴史談義以外の話題を別に排除はしないし、
歴史談義以外の話題でも関心のある話なら普通に話に加わるけどな。
しかし歴史談義排除厨は、ちょっとでも自分の気に入らないレスは、
徹底的に排除しないと気が済まないというのが不思議w
もっともスレの流れが気に入らないからと、
「太平記避難所」なる重複スレを立てる行為に関しては、
尺度の違いというような議論の余地がない明確なルール違反。
だから確信犯的にそれをやった歴史談義排除厨には、何とも言えない気持ち悪さというか、
底意地の悪い悪意が見てとれる気がして嫌な気分になるね。 >太平記スレの活性化のために、
甚だしい思い上がり
独善アスペのID:eWM1j4QH 義家の家来だった高階の一族は、義家の子供が養子に入っているから血筋的には源氏
その孫か曾孫の一人が三河で領主をやっていて、三河に逃げてきた足利義兼と懇意になったのが高氏の祖である高階惟長
高階惟長の嫁は大江広元の娘で、頼朝から陸奥国の所領を貰ったらしい
平安末期〜鎌倉中期の高氏は、足利家来と言うより幕府御家人だな
貞氏の代になって、被官として家臣団に組み込まれた だから高階惟長ゆかりの三河の中心部は高一族に譲られ、足利宗家は矢作川川沿いの大門地区に屋敷を構えた
高氏所領
・三河国額田郡菅生郷、三河国額田郡比志賀郷、三河国額田郡政所、三河国額田郡矢作東宿、三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)
■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(三河県岡崎市)郷司
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲る(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(三河県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進する
■高師重
・父は高師氏
・三河国額田郡菅生郷郷司
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(三河県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する
■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)
■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(三河県岡崎市)大勧進
■三郎
・父は高師秋
・滝山寺(三河県岡崎市)僧
■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直の養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(三河県岡崎市)に総持寺を建立する、
・三河国菅生郷(三河県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された
■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(三河県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持 その足利宗家の大門屋敷から南に2キロ行ったとこにあったのが、足利尊氏、直義かま生まれただろう上杉氏の日名屋敷
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 だからシジツハナスナーはスルーして
歴史談義やりたきゃやれと
ナスナーは他の話題すら出さないで口を封じにくるだけだから
放置が最善 その足利宗家の大門屋敷のすぐ北にあったのが文書係だった倉持氏の屋敷だった便寺屋敷
その倉持氏出身の鈴木由哲の実の息子が第42代総理大臣の鈴木貫太郎
鈴木由哲(倉持由哲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%94%B1%E5%93%B2
>由哲の実家は三河の渥美郡の出で、倉持家は大名にこそなっていないが、旗本や譜代大名の家臣として多数を占めており、古くからの徳川の家臣である。
>鈴木の家には子供が無かったので倉持家から養子に入った。倉持家は足利氏(室町幕府将軍家)の被官で鎌倉期から足利氏所領の管理を行い三河額田郡内に所領を持っていた家柄である。 その三河鈴木氏には、源為朝の遺伝子が受け継がれていて、家康とやらにも伝わっている
■今川記(1553年成立)
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
家康とやらに源義家、源義国(源姓足利氏・新田氏の祖)、足利義兼(初代源姓足利氏)、一色公深(初代一色氏)、今川国氏(初代今川氏)、吉良長氏(初代吉良氏)、源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の遺伝子イン その源為朝の孫娘は頼朝の跡取り息子の嫁(正室)だった
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園(三河国高橋荘、高橋新荘)の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。 スレの活性化の為って、ぶっちゃけ引いちゃってるよ。長いし読む気にならん。明らかに普通の書き込みの勢い落ちてる。
読んだけど源頼朝や北条政子なら「草燃える」スレかやっぱり歴史板じゃ? 歴史談義したけりゃ、何故やるか長文の言い訳なんてしてないでやればいいし、
歴史談義が嫌なら、歴史談義すんなとか荒らさずに他の話題を振ればいい ちなみに上杉は、外戚ではあるけど、師直暗殺はやりすぎた
尊氏に睨まれてその後長く失脚、関東管領は畠山が握ってた いろんな人間がいろんな時期でいろんな陣営に属してるから
その時期その時期で属する陣営を間違えずにのし上がって有力者のまま人生を終えるとかムリゲーや(´・ω・`) >>168
名越高家なんかは、出ていて、判官殿に、構われていたのに、畠山氏は、出ていなかった。 >>168-169
畠山国清は「兄弟の絆」の回で、直義が後村上の綸旨を受け取る場面に登場していた。
あと「将軍の敗北」の回の打出浜の戦いの戦後処理の評定にも恐らくいたと思われる。
またそれ以外では、その少し前の回で、畠山直宗が上杉重能とセットで何回か登場して、
師直を闇討ちにしようとしたりしている。 >>171
見落としていました。ありがとうございました。 このドラマ安達時顕が出てないと思ったら秋田城介って名前で
出てた
ひょっとしてあきたじょうのすけって名前と勘違いしてたのかも知れない ともチンを除外するとかアホか?
足利尊氏の真の目的は、鎌倉幕府創成期と同じように、幹部をともチンの母方縁者でがっちり固めた体制に戻す事だ
ではこのともチンの母方縁者とは何ぞやになるだろうが
ともチンの母方縁者とは?
霜月騒動の負け組(ともチンの三河譜代)
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←初代の盛長は三河守護、泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼朝嫡男の正室の家系
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・長井氏(大江氏)←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り >>173
大河って時々そういうよく分からない役名にすることあるよ。
『草燃える』では、摂関家の近衛基通を「摂政基通」という役名にしていたし。
同じ摂関家の九条兼実が普通に「九条兼実」の役名になっていたのと比べると、
明らかに整合性がなくて不思議であったがw すごい勢いでスレ進んでると思ったらあぼーんばっかw誰も聞いてなくて太平記関係ない話を上から目線で語られてもねー。何年も前からいるけど心の病気の人なん?ブログかなんかで勝手にやって欲しいわ。
太平記のオープニングの映像って何か意味あるのかね?楽曲が大河最高傑作なのは間違いないんだが映像って天狗?のお面出たり滝流れたりで何か寓話的だなって思った。 >>176
安達時顕なのか安達高景なのか微妙なんで、秋田城介と言う名前にまとめちゃったのかもw
顕子の父として六波羅で戦死した説もあるよね >>177
うろ覚えだが
天狗の面は
北条高時の元へカラス天狗が現れて
一緒に酒宴した
みたいな伝説があるからでは? >>178
確かに顕子の父が六波羅で死んだことは、数少ない顕子自身のセリフのなかで語られているな。
但しドラマにおいて顕子自身の素性・身分は明かされていないからな。
高時の正室なのか側室なのかも含めて・・・。
あとこのドラマの役名で少々一貫性に欠けるという印象を受けるのは、北条一族の名前だな。
例えば赤橋守時・金沢貞顕・大仏貞直などのように、
北条氏の庶流の人物を北条以外の苗字(家号)で呼んでいるケースもあれば、
六波羅探題北方の仲時は、「普恩寺仲時」ではなく「北条仲時」だったりする。
しかし元弘の乱勃発時に、上方へ派遣する軍勢のリストを高時が読み上げる場面では、
「普恩寺相模守」(仲時の父基時?)という名前があったりもする。
あと貞顕については、最初の2回だけ「北条貞顕」で、その後「金沢貞顕」に変えているから、
ここにどういう意図があったのかは不思議というほかない。 得宗家嫡流以外が北条を名乗るのは制限があったともいうね
得宗様からはやっぱり家名で呼ばれるのが自然かも >>183
最初のときは連署だったからでは?
連署降りたら金沢にとか
六波羅探題にしろ役職つくと北条名乗れるとか とうこ、高時、日野様がテレビ東京のドラマ出てるw
太平記の人が群れてるとニヤニヤしちまうね >>184
その手の制限は、室町幕府が足利一門庶家に対してやっていたのは聞くが、北条はどうだろう?
家格的には赤橋流より下のはずの政村流には、北条以外の家号みたいなものがなさそうだし。
>>186
初登場の時点での貞顕は、連署どころか評定衆にも未だなっていない段階だよ。
初回の貞氏との会話のなかで、
「自分がなかなか評定衆になれないのは、長崎殿への付け届けが足りないから・・・」
みたいな会話をしている。
たぶん尊氏が誕生した頃だと、執権は師時、連署は後に執権になる大仏宗宣だろう。 >>180
そんな逸話あったんだ!高時って実際は暗愚じゃなかったのかもね。 >>189
暗愚かどうか以前に、実際の高時は病弱で表に出てくること自体があまりなかった人物というが。
そういえば、このドラマの「妖霊星」の回での嘉暦の政変の描写は、
無理やりカラス天狗を絡めようとした雰囲気もあるがw トップが有能でなくても幕府は機能していたので
高時の時期の鎌倉幕府はある意味完成形に近かったのかもしれない
でも完成形になったら滅びちゃった、と 原典太平記だと、あの崇徳院を始めとした大天狗たちが多数現れて
政変は概ね「天狗の仕業ぢゃ!」
しかし大河版も吉川版太平記も天狗はいないからね 組織が完成されると
「トップが誰であっても組織は動く」ようになるのかな(?)
源頼朝→御家人合議制(→執権制)→得宗専制(執権より身分は下?)→御内人専制
→崩壊
史実は知らないけど
フランキー堺(長崎殿)は「公平な政治」を口にしていたが、実際はどうだったのかな
息子のほうは賄賂政治家だったようだけど 今日BS−TBSで昭和63年元日に放送された家康ドラマを放送していた
真田さんが三成役だった
うまいねえ
今の俳優にあのレベルはいない
緒形拳さんも出てた >>191>>193
むしろ逆のような気がする。
得宗専制は、トップである得宗に大きな権力が集中する体制だが、これは裏を返せば、
大きな権力が集中する得宗は有能であることが前提の体制。
しかしそこに政治能力の微妙なトップが生まれてしまったから、
そのトップの持つ権力に周囲の人が群がって政治を振り回し、
政権の混乱・崩壊に繋がったというイメージだと思うよ。
あと、これと似たようなパターンとしては、足利義教の時期の室町幕府の将軍専制体制と、
義教死後の幕府の迷走が挙げられるような気がする。 >>156
追加
高師泰、高師直に姉妹で、とーちゃんが創建した深恩院総持寺で尼をやって奴がいたらしい
まとめ
@高師重(三河国額田郡菅生郷郷司、足利貞氏、足利尊氏執事)
・高師泰(尾張守、幕府執事) →Aへ
・高師直(三河守、幕府執事) →Bへ
・貞円(三河国滝山寺大勧進)
・満目尼(三河国深恩院総持寺開基尼)
・女子(高師春室)→高師兼(三河守護)
A高師泰(尾張守、幕府執事)
・高師世→いち(三河国総持寺初代住持)
・明阿(三河国総持寺開基、高師冬室)
B高師直(三河守、幕府執事)
・高師兼(猶子、三河守護)
・高師冬(猶子、三河守、関東執事、室は明阿)
・高師夏
・高師詮
・女子(渋川直頼室) 直義がなまじ能力があったのが不運だったな
いや、でも直義がいたからこそ足利があそこまでなったってのもあるから何とも言えんな >>197
史実もドラマも直義ありきでしょう
直義あっての尊氏
直義あっての室町幕府
その直義を自らの手で殺したときの想い
筆舌に尽くしがたいよな まあ結局直義の政治手法はその後の室町幕府には踏襲されていかない部分も大きいが、
一方で後々まで武家社会に直義信奉者が多い理由だな。 >>198
まあドラマではあんなだったけど実際はもう愛は完全になくなっていたんじゃないかな・・
直義が北へ逃げていったあとの尊氏、今までとは別人格レベルで行動早いし北朝捨てる剛腕ぶりだし
直義死んだ直後の3月に宇都宮さんか誰かに出してる感状で直義反心によって起きた戦いのときに〜みたいな書き方してるのを見て
ああもはや尊氏にとって直義は謀叛人でしかなかったのかあ・・と悲しくなったのよ(´・ω・`) そんな感情的な直義への憎しみなんて、尊氏にあったのかなあ
師直殺害の罪をあれだけ上杉に厳しく問うたのに
弟である直義だけ赦免してしまったら、部下たちは反感を持つだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています