【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
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>>242
しつこい
>>232は「たくさんある」って書いたよな 一つや二つがたくさんかよ >>243
都内にはたくさんある=都内なら各自治体単位で見ても一つや二つは確実にある
なにも論理矛盾はないのだが・・・。
というか、しつこいのはそっちじゃないか?
だいたい、しつこいと感じるなら、一々こちらに噛みついて何時までも話を蒸し返すの止めたら? 儂の犬は檻のなかにいるから可愛いのじゃ・・・。
噛みつく者は檻のなかがよいぞ、檻のなかが! 佐々木判官、申したき議あり。しばしお控えめされよ! 後醍醐天皇は(結局失敗に終わるが)利権をバラ撒けたからなぁ
阿野廉子と後醍醐の会話にもあったが功なく群がる連中いっぱいいたんだろうね
功無しが視点によって変わるのが難しさ
のう、赤松円心殿? バラ撒きは求心力の維持のためには必要だし、その後の室町幕府だって、南北朝期には
かなり露骨にバラ撒きをやっている。
赤松の冷遇の件は、廉子派と護良派の対立という背景があるから、これとは別次元の問題だろう。 最近は「英雄たちの選択」とかでも室町が時々取り上げられるけど、また大河でやることはないのかな? 大河ドラマ「明治天皇」
主演:仲代達矢
出来ないことはない 放送期間二か月かけて主人公の人生の1年を消費する感じで >>260
そこで挙げるなら室町ヲタ的には足利義勝だろw >>262
花の乱で義政に犬追物に誘われて
落馬して死んでたな
誘った義政が兄貴溺愛してた母親に
そなたが死ねばよかったのじゃって言われて
あのキャラクターにw 母親に「お前が死ねばよかったのに」とか言われたらああもなるわなw 「花の乱」で日野重子が最期に富子に向かって、“お前は本当の富子ではなくて鬼の子だ”というようなことを言った後、
義政に対しても“お前も本当の将軍じゃない。本当の将軍は義勝”って言ったのには、
笑ってしまったw 第1話で出てきた富子と鬼の子の入れ替わり設定は、「花の乱」が低迷した大きな要因だったような気がするな 「太平記」と「花の乱」の間の時期の作品が欲しいよな。 そういえば藤夜叉が死んだ時、ナレーションが藤夜叉は再び死んだみたいなこといってたけど、ということは以前も死んで生き返ったってことなの? >>268
義満を忘れているよ。
>>269
そんなナレ、記憶にないのだが・・・。 そもそも三河バカみたいな思考の人間って、どこでどう育てばああなるのか不思議だw 倉山満が陣内の佐々木道誉を絶賛してたけど、実は陣内の
俳優デビュー時の役名がコマンド佐々木なんだよな。
バサラだぜ。 陣内はこの大河でトメにもなってるが、最もキャリアの短いトメなんじゃないか? >>279
終盤で重鎮キャラが退場した後の頃かな? 太平記に出た後で大河の主演をやったのは千種本木だけ? 子供の頃、意味がわからないまま見てた(というよりOPの天狗が怖かったのでまともに見れなかったw)から今になってこの時代の面白さと足利尊氏の凄さを知ってレンタルで一から見てみたいと思う >>281
本木だけだな。
ところでモックン、柄本師直とは映画でもドラマでも結構共演してるね。
>>282
俺はようつべで1から見たわけだが。 鎌倉まで行って腹切やぐら見てきた。はるか山奥やな昼間でも薄君悪いじめじめしたところだった。
さすがに夜一人で行く気にはならんなあんなとこ。とりあえず今週の日曜日やったがあれ以来体調が
悪い。明日の仕事は休もうか… 北条時宗
見始めたけど
足利が長崎高資と阿野廉子の
夫婦とか
w
金沢の先祖とか赤橋の先祖とか
今見ると面白いな 【第三十二回】太平記 part.32『>>287死す』 義貞や高氏の言う 南無八幡って
豊岡八幡宮のことですか? やはりトメのクレジットは
「後醍醐天皇 片岡孝夫」
でなければ。 石清水八幡宮で元服した八幡太郎義家から南無八幡大菩薩だよな >>297
八幡宮の祭神は応神天皇だけど、実は河内源氏の本拠地が応神陵のすぐ近くなんだよな。 じゃあ頼信やその前から八幡信仰だったのか。頼朝が鎌倉殿になったから後家人全ての崇拝を受けたわけね 鎌倉の鶴岡八幡宮も、元を辿れば頼義が前九年合戦の際に建立したものらしいよね ちくま学芸文庫で
応仁の乱を描いた軍記もの「応仁記」の現代訳版が出てた
これは、以前出版されたものの文庫化らしいけど
今、応仁の乱がプチブームだから出たかな
太平記の方は、読もうと思ったら
手に入りやすいのは、私本太平記か岩波の現代語訳かな この前神戸のめんたいパークに行こうとしたら阪神高速で姫路と大阪の分岐点を車のナビがスルーして思わず姫路方面の分岐点に入ってしまって最初は何やねんこのナビ、アホかボケと思ってたんだけど
経路を修正したナビの通りに一旦阪神高速を出て下道を走ってたら湊川ICに辿り着いた…
なんで湊川…
太平記は好きだったけど太平記に関わりすぎると祟られるって思い出して背筋が少し寒くなった >>304
ただ正直「応仁記」程度の軍記だと、原文で読んでも大して難しくないし、現代語訳の
需要って、どんなものなんだろうね? 京都観光のついで・・・といっても京都駅からちと面倒な京阪本線に乗って
(注・特急は止まらない)八幡市駅で降りて
男山参道を歩くかまたは京阪のケーブルカーに乗るか、でちょっと手間だけど
岩清水八幡宮はほんとにいいよ
展望台からは大山崎や天王山が見渡せて、遠く愛宕山に比叡山がかすみ
宇治川、木津川、桂川が三川合流して淀川となる地点もちらと見え
ここが山背国と河内の国境であり古来からの要衝の地ということが良くわかる
岩清水って今はとても地味ーだけど(市も八幡市)祭は勅祭だし
都の逆鬼門を護る王城鎮護の大事なお社で
幕末の天皇行幸や和宮が降嫁する際に参拝したような由緒なんだよな //shirousagi.hatenablog.jp/entry/gyakusetsunonihonshi7/
日本史
・・・作家の井沢元彦さんは、「逆説の日本史7 中世王権編」で、これらとは違う独自の見解を述べています。井沢さんは、明治天皇が南朝を正統とした理由を怨霊信仰だと考えています。
日本は古来から怨霊信仰が盛んだったというのが、井沢さんの日本史全体の捉え方です。そして、明治天皇が南朝を正統としたのも、怨霊信仰が根底にあるからだと。
・・・■太平記の世界で怨霊となって暴れる後醍醐天皇
太平記は、前半は史実を描いていますが、後半は楠木正成や後醍醐天皇などが怨霊となって暴れる内容になっています。
これが、日本古来から続く怨霊信仰なのです。後醍醐天皇のように高貴な人が非業の死を遂げると世の中に災いをもたらす、古代から日本人はそう考えていたので、怨霊鎮魂のために様々な工夫をしてきました。神社の建設や祭りがそれです。
後醍醐天皇の怨霊も、敵方の足利尊氏が京都の嵐山に天龍寺を造営して鎮魂しようとしました。しかし、それでも乱世は続きます。
だから、物語の世界で怨霊に好きなだけ暴れまわってもらえば平和が訪れるに違いない、そう考えて太平記の世界で後醍醐天皇たち非業の死を遂げた人々を活躍させたのです。
怨霊をなだめる、というのは一体どうすればいいのか。一番わかりやすいのが、「暴れみこし」である。普段神殿の奥に封じ込められている御霊を、御輿に乗せ思う存分暴れ回らせることだ。それによって、怨霊のフラストレーションは発散されるのである。
日本人の怨霊信仰はいつまで続いたのでしょうか? 現在も続いているかもしれませんし、もう怨霊を信仰していない人の方が多いかもしれません。でも、明治時代には、まだ怨霊信仰が続いていたでしょう。
その証拠として考えられるのが、平安時代末期に起こった保元の乱で敗戦し讃岐に島流しとなった崇徳上皇の神霊を明治天皇が京都に戻したことです。崇徳上皇は讃岐で非業の死を遂げています。上皇が生存中でも京都で災害が起こると、その生霊の仕業だと人々は恐れました。
崇徳上皇は、最後まで京都に還りたいと言い続けましたが叶いませんでした。死の直前には大魔王になって呪い続けてやると言ったそうです。
その崇徳上皇の怨霊を鎮めるために明治天皇が神霊を京都に戻したのですから、近代になっても日本では怨霊を信仰していたのでしょう。
南北朝の騒乱は、最終的に北朝の勝利で終わり南朝は吉野の山奥で滅びました。北朝との徹底抗戦を望んでいた後醍醐天皇の遺志は叶わなかったのです。
以来、皇位は北朝系が続き、明治天皇の時代になった時、南朝と北朝のどちらが正統かという議論が持ち上がりました。勝者の北朝が正統だと言えば、後醍醐天皇の怨霊が暴れ出して再び南北朝時代のような乱世が訪れるかも知れません。
それを避けるため、すなわち怨霊を鎮魂するために明治天皇は南朝が正統だとおっしゃったのでしょう。
一番怖いのは後醍醐やその末裔の怨念がこもってる奈良吉野の奥の方だろ。 今の□□に男子がいなくなったら竹○には継承させず
熊沢家に禅譲すれば解決
―――
日本会議スポークスマン竹□□□ 安倍は無実と公言
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/emperor/1502566385/ 赤橋・常盤・普恩寺・塩田などは、すべて極楽寺重時の末裔だな。 原作の私本太平記では藤夜叉はロクに活用されないキャラでしたな。 >>301-302
この辺も面白いね、武士の勃興期あたり。太平記に連綿と続いている。
大河ドラマだと
炎立つ→義経→草燃える→北条時宗→太平記
この流れで見ると面白いよ >>325
確かに面白そう
>>322
極楽寺、金沢、大仏とかいろいろあるのに政村はないのは何で? 政村流は常磐でいいんでないの?生前か死後かはわからないが常磐院覚崇を名乗ってるし >>328
しかし極楽寺の庶流にも常磐という家系があるからややこしいんだよな。 首藤氏(山内首藤氏)まとめ(乳母父、乳母について)
■源為義乳母父:首藤資道
首藤資清(初代首藤氏)→資道(源義家郎党、三河国の住人(尊卑分脈))
■源義朝乳母:鎌田通清(初代鎌田氏)の嫁
首藤資清(初代首藤氏)→資道(源義家郎党、三河国の住人(尊卑分脈))→鎌田通清(初代鎌田氏)→政清(源義朝乳母兄弟)
■源頼朝乳母:山内首藤俊通(初代山内首藤氏)の嫁(山内尼)
首藤資清(初代首藤氏)→資道(源義家郎党、三河国の住人(尊卑分脈))→親清→義通→山内首藤俊通(初代山内首藤氏)→経俊(源頼朝乳母兄弟)
鎌田氏補足説明
■真福寺(三河県岡崎市)僧(鎌田政清の兄弟):政清を含む遺体3体を引き取り、真福寺東谷に埋葬する
首藤資清(初代首藤氏)→資道(源義家郎党、三河国の住人(尊卑分脈))→鎌田通清(初代鎌田氏)→真福寺(三河県岡崎市)僧(鎌田政清の兄弟)
・真福寺(三河県最古の寺)
伝、法華堂は足利義兼、証菩提院は頼氏、持地院は尊氏の建立
真福寺町字薬師山6にある天台宗寺院。霊鷲山降剱院と号し、本尊は水体薬師如来。鎌倉前期成立の『聖徳太子伝古今目録抄』によれば、推古天皇のころ物部守屋の子息の真福が父のために建立、聖徳太子が敷地・田地を賜与したという。
所伝はそのままでは信じ難いが、物部氏の建立という伝承は重要で、物部氏の本宗家ないしその近縁の三河国造の系譜に連なる氏寺と考えることができる。室町後期成立の「真福寺元起」ではいっそう物部真福の創建を潤色している。
白鳳期の塑像仏頭が伝わり、東谷の発掘調査で白鳳期の軒丸瓦が出土しているから7世紀後半の創建は確実。碧海郡北野にあって火災に遭い(遺跡は北野廃寺)、寺基をここに移転したという説は成り立たない。
平安時代に天台宗寺院として再生したが、仁平元年(1151)2月24日に焼失したという。
鎌倉時代に守護・地頭の足利氏などの庇護のもとに盛期を迎えた。法華堂は足利義兼、証菩提院は頼氏、持地院は尊氏の建立という。寺外史料も比較的多く、滝山寺本堂三重塔・惣門などの落成供養に請僧として当寺の僧が招待されている(『滝山寺縁起』)。
山内首藤氏補足説明
■額田山内氏
首藤資清(初代首藤氏)→資道(源義家郎党、三河国の住人(尊卑分脈))→親清→義通→山内首藤俊通(初代山内首藤氏)→経俊(源頼朝乳母兄弟)→山内国俊(初代額田山内氏(三河国額田郡桜形))
・山内国俊の実父は経俊の兄、俊綱か?実母が山内尼であるのなら源頼朝乳母兄弟になる たぶん鎌倉殿誕生までの苦難の前史である為義も義朝も必要ないのだろう
>>325によると まあ東国武士がみな「源氏累代の家人」だったなんていうのも、幕府成立後の後世に
作られた幻想らしいからな。 そりゃ昔は血統や系図なんて
きっちり調べや裏付けがあったとは思えないしな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています