ちょっと不正確。
俳優がその場面がもつ真のの意味を、前後左右(時空間)の広がりの中に完璧に位置づけて
完璧に理解し尽くした上で演じていたかといえば、前後まとめて撮影する方式もあり
そうとは言えないだろう。このことはどの大河でも当てはまる。
特に清盛のように繋がりを生命線とする大河では困難さを増す(信西と頼長の中の人の証言あり)。
時空間を頻繁に弄るクドカン作品においても、同じようなことが言えるだろう。
しかし、優れた俳優たちが、自らが理解したその人物をその時、その時全力で演じることによって、
その人物の魅力は、何らの齟齬も来さず現代に蘇りうるのだ(信西と頼長が証明している)。
要するに、俳優たちが完璧に理解している面でも、理解が及ばないまま演じている面でも、
ほとんどの大河に差異はなく、いだてんの役者たちが特別に優れている、あるいは清盛の役者たちを
凌駕しているということはない(両者素晴らしいで良いではないか)。